結果とその後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)
「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「結果とその後の影響」の解説
10月27日、大本営海軍部はレイテ沖海戦の戦果を、「空母撃沈8隻、撃破7隻、航空機撃墜 約500機、・・・・」と発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本軍の状況判断を誤らせることになった。 実際の戦果とは裏腹に、日本海軍は米軍に対して一定の戦果をあげたと考えていた。サマール沖海戦で米護衛空母群を高速機動部隊と誤認していた事もあり、栗田艦隊だけでも撃沈・空母4隻(内大型正規空母1隻)、重(甲)巡洋艦1隻、軽(乙)巡洋艦1隻、駆逐艦4隻。撃破・空母2隻、巡洋艦又は大型駆逐艦2隻乃至3隻の戦果をあげたと判断している。このため戦後になって実情が判明するまで、栗田と小沢の本作戦における海軍内での評価は現在と大きく異なり、自艦隊のみで米機動部隊の一群を殲滅した栗田艦隊への評価は高かった。 この海戦での連合艦隊の指導した「航空支援のない水上艦艇による突入作戦」は、制空権が重要となった第二次世界大戦では成功はほぼ不可能というのが常識となっており、小沢や栗田ら開戦以来前線で戦ってきた前線指揮官たちもそのように考えていた。しかし連合艦隊は当初の作戦内容では基地航空隊と機動部隊による航空支援を盛り込んではいたが、台湾沖航空戦の誤報戦果に踊らされて、捷号作戦用に用意されたそれら航空戦力を磨り潰してしまい、続けて米軍がレイテに侵攻すると後手後手に回り、結局航空支援のない突入を前線部隊に強要した。このことは連合艦隊と前線部隊、特に第二艦隊(第一遊撃部隊)との間にしこりを残した。 栗田艦隊が内地に帰還し軍令部に出頭した際、山本祐二第二艦隊参謀より、航空支援の無い状況で水上艦艇を突入させることが如何に無謀で実施困難であるかが改めて報告され、「味方航空兵力の支援のない場合、航空兵力優勢な敵を相手として戦闘するのは無謀も甚だしい。今後は一切今回のような無謀な戦闘はやらせぬようにしてもらいたい」と、軍令部より連合艦隊司令部へ指導して欲しいと要望された。軍令部はそれを了承し山本親雄第一課長より連合艦隊側へ「今日までの実績を鑑み、味方航空兵力著しく劣勢なる場合、戦艦巡洋艦を以って局地戦に参加せしめることは適当と認めざるにより、大本営としては連合艦隊司令長官がかかる兵力使用を行われざる様希望す」と伝えられた。しかし神重徳参謀は「これまでの戦闘において失敗したのは当事者の勇気が欠けていたためである。勇気さえあれば優勢な敵航空兵力であっても大艦をもって上陸作戦時の攻防戦に参加させることは必ずしも不可能ではない」と反論し取り合わなかった。神重徳参謀の航空支援の重要性の無理解さ(悪く言えば客観的根拠のない根性論)は以後も続き、1945年4月からの沖縄戦では再び航空支援の無い突入を立案。第二艦隊は大和、矢矧など6隻を失い、約3700名の将兵が無為に死んでいった。前記の山本参謀もこの時大和と運命を共にしている。
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