ギリシャ侵攻とは? わかりやすく解説

ギリシャの戦い

(ギリシャ侵攻 から転送)

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ギリシャの戦い(ギリシャのたたかい)は、第二次世界大戦中にギリシャおよびアルバニア南部地方で起こった戦いである。戦いは連合国ギリシャイギリス連邦)と枢軸国ドイツイタリアブルガリア)の間で行われた。ギリシャの戦いは、クレタ島の戦いやいくつかの海戦ともに、第二次世界大戦におけるドイツ軍のバルカン半島攻略作戦のエーゲ海側を構成していたと考えられており、また、ギリシャの戦いは1940年10月28日より始まったギリシャ・イタリア戦争の延長と考えられている。


注釈

  1. ^ イタリア及びギリシャの戦力、損害の統計についてはギリシャ・イタリア戦争の戦力、損害を含んでおり、約300,000名のギリシャ将兵がアルバニアで戦っている。[3]また、ドイツ軍の犠牲者数はバルカン半島における全体での犠牲者であり、1941年5月4日の帝国議会におけるヒトラーの声明による。[4]
  2. ^ キプロス、パレスチナ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドそれぞれの軍の合計で将兵58,000名であった。[6]
  3. ^ この出来事の前に、ヒトラーはイタリアが勢力範囲とする箇所は地中海アドリア海であることに同意していた。ユーゴスラビア、ギリシャはこれらの範囲に存在したため、ムッソリーニはこの地域をイタリアの勢力範囲にする権利があるとしていた。[16]
  4. ^ アメリカ陸軍の公式記録によると、イタリア軍が撃破され、即時退却したことはヒトラーの不快感を高めるだけであった。そして、最もヒトラーを怒らせたことは、バルカン諸国を平和に保つべきであるという度重なるヒトラーの声明がムッソリーニに無視されたことであった。[18]
  5. ^ バックリーによれば、ムッソリーニはギリシアが最終通告を受け入れずに、何らかの抵抗を行うことを望んでいた。さらにバックリーは、後に発見された書類によれば攻撃準備が詳細に準備されていたことを示しているとする。ムッソリーニはまるでナポレオンのような勝利を挙げたドイツの名声とバランスを取るために、議論する余地のないほどの大勝利を必要としていた。[19]
  6. ^ アメリカ陸軍の公式記録によると、ギリシャ政府はユーゴスラビア政府にこの決定を通知し、またドイツ政府にも公表した[26]。パパゴスはこのことについてこう書いている。

    これはドイツ軍がイギリス軍を追い出すためにギリシャを攻撃しなければならなければならないというドイツの主張に決着をつけることになるだろう、なぜならば、ドイツ軍がブルガリアに移動しなければ、イギリス軍がギリシャに来ることはないことをドイツに知らせたからである。ドイツが小国への攻撃を正当化するためにこのような理由を挙げるのは単にドイツの事情だけであり、しかも、すでにドイツは強国との戦争に巻き込まれている。しかし、第一にドイツは1940年秋にすでに準備しているロシア侵攻計画のためにドイツの右側を確保しなければならないこと、第二に地中海東端を支配できるバルカン半島南部を確保することにより、イギリス本国と東洋との連絡路を攻撃する計画のために重要な地点であることから、バルカン諸国にイギリス軍が居ようと居まいとドイツの介入は発生しただろう[36]

  7. ^ ドイツ軍がすでに侵攻準備が終了していた1941年4月6日夜間、ユーゴスラビア軍は計画を実行することをギリシャ軍に通知、4月7日の午前6時にイタリア軍を攻撃することとなった。しかし、4月7日午前3時、ギリシャ第1軍が配下の13個師団を持ってイタリア軍を攻撃、2箇所の高台を占領してイタリア将兵565名(将校15名、兵士50名)を捕らえたが、ユーゴスラビア軍は姿を見せず、結局、ギリシャ軍も8日に攻撃を中止した。[42]
  8. ^ ギリシャに派遣される予定であったポーランド独立カルパチアライフル旅団とオーストラリア第7師団は北アフリカ戦線のキレナイカにおいてドイツ軍が優勢となったため、ウェーベルはエジプトに配置した。[44]
  9. ^ イギリス連邦軍の脱出した将兵数は情報源により一致していない。イギリス政府は、50,732名が脱出できたとしている[107]。しかしG・A・ティッタートンは、これらの内、約600名が撃沈された船中にいたとしている。また、さらに500〜1,000名の落伍兵がクレタ島に脱出しており、ティッタートンはギリシャからクレタ島、もしくはエジプトに脱出できた将兵(イギリス連邦、ギリシャ両方の将兵を含む)はおよそ51,000名であったと推測している[108]。ギャビン・ロング(第二次世界大戦のオーストラリア公式記録より引用)は約46,500名の数字を挙げており、W・G・クレイトン(第二次世界大戦のニュージーランド公式記録より引用)によれば50,172名の数字を挙げている[109]。また、クレイトンは乗船が夜間であり、また大急ぎで行ったため、脱出する将兵の中にギリシャ兵や難民がいたことを考慮に入れれば、数字が違うことも納得できると指摘している[110]
  10. ^ 古代ギリシャを好んでいたヨーゼフ・ゲッベルスはギリシャを初訪問したとき、青春期の夢がどのように実現したかを日記にかいている。[137]そして、メタクサスが中立を保とうとしており、[138]彼の日記にはヒトラーがギリシャとギリシャ人に対して好意的感情を持っていたとしている。しかし、拡大する枢軸国の戦略上、ギリシャへの侵攻を不可避とした。[139]
  11. ^ カイテルによれば、ドイツ軍がギリシャ侵攻を準備していた1940年秋、ヒトラーはこの作戦を行わなければならないことを深く残念に思っていると親しい友人たちに繰り返し言っていたという。[141]
  12. ^ 1940年12月5日付けのルーズベルトからゲオルギオスへの手紙より。[143]

出典

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ギリシャ侵攻

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バルカン戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「ギリシャ侵攻」の解説

詳細は「ギリシャの戦い」を参照 ユーゴスラビア下したドイツ軍4月10日そのままギリシャ本土エーゲ海島嶼部へ軍を進めたいわゆるマリタ作戦」)。北アフリカから輸送船団送り込み挟撃されイギリス軍ギリシャ軍総崩れとなり、4月27日首都アテネ陥落4月30日にはペロポネソス半島から戦車など重機材を遺棄してクレタ島撤退ギリシャ本土ドイツ・イタリア両軍共同統治下に置かれた(ピンドス公国・マケドニア公国)。また、マケドニア地方ギリシャから分割されブルガリア領有となった

※この「ギリシャ侵攻」の解説は、「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」の解説の一部です。
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