ギリシャ人の占星術
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詳細は「en:Hellenistic astrology」を参照 332年にアレキサンダー大王によって占領されたあと、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及した。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)[要出典]。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった[要出典]。 ホロスコープの普及は、春分点歳差の発見者とされるヒッパルコス(紀元前2世紀)以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされた[要出典]。 ギリシャがローマ帝国の支配下に入った後も、ギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでもマルクス・マニリウスの『アストロノミカ(英語版)』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師クラウディオス・プトレマイオスの貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『アルマゲスト』とともに、占星術書『テトラビブロス(英語版)』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている。 プトレマイオスは、古代より天文学界を支配してきた地球を宇宙の中心ととらえ、太陽や惑星が地球の周りを回る「天動説」を集大成して、「プトレマイオス体系」として確立し、天文学や占星術の「世界観」に大きな影響を与えた。 ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、ハウス、十二宮などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)。
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