ギリシャ分断レジーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 21:41 UTC 版)
「キプロス紛争」の記事における「ギリシャ分断レジーム」の解説
第二次世界大戦後、人口の8割を占めるギリシャ系の住民たちがギリシャへの併合を要求したが、イギリスはキプロスの統治権を手放す気はなかった。しかし、1950年1月、ギリシャ系であるラルナカ主教ミハイル・ムスコス(同年9月、キプロス正教会首座主教に選ばれマカリオス3世)がギリシャへの併合を問う住民投票を実施。95.7%の人々がギリシャとの統一に賛成した。これを受けたキプロス代表団はギリシャ政府へ国際連合へ提訴するよう訴えたが、イギリスに同調してギリシャは統一を拒否した。 1955年4月、キプロス生まれのギリシャ軍将校ゲオルギオス・グリヴァス(ギリシア語版)は不服従運動を開始。これは後にキプロス解放民族組織(EOKA) (en) の結成に発展し、マカリオスはこの動きを黙認した。これらの事態に対し、キプロス問題がギリシャへ有利に進む事を恐れたイギリスは、トルコに対してキプロスにおいて利害関係があるよう主張させるために働きかけた。1955年9月、ロンドンで英希土三国会議が開催されたが、この会議が行なわれている最中の9月6日から7日にかけてイスタンブールとイズミルで反ギリシャ人暴動が発生してしまう。暴動は希土両国に決定的な亀裂をもたらしロンドン会議は決裂した。イギリスは、キプロスが軍事施設の設営に適し、地中海における戦略的重要地域となっていることに気づいていたが、第二次中東戦争(スエズ動乱)の敗北でキプロスの部分的放棄を認めざるを得なかった。各国の利害を収めるためにチューリッヒとロンドンで会議が持たれ、英希土3国政府に加え、キプロスのギリシャ人代表としてマカリオス、トルコ人代表としてファーズル・キュチュク(英語版)らが参加した。この当時、ニコシアで新聞社爆破事件が起きるなどEOKAやトルコ系キプロス人らの武装組織によるテロが激化し、手詰まり感が広がっていたことから、マカリオス大主教はキプロスの独立を選択した。その結果、チューリッヒ・ロンドン協定 (en) が成立し、1960年8月16日をもってキプロスはイギリス連邦に属する「キプロス共和国」として独立したが、憲法が欠陥を抱えたまま制定された上、キプロス正規軍である『キプロス民族防衛隊』とイギリス軍に加え、ギリシャ軍、トルコ軍、国連平和維持軍が駐留することとなった。
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