ドイツのユーゴスラビア・ギリシャ侵攻
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「バルカン戦線」の記事における「ドイツのユーゴスラビア・ギリシャ侵攻」の解説
1941年の戦闘の詳細は(バルカン半島の戦い)に譲る (イタリアのギリシャ侵攻) (北アフリカの戦い)も参照 1940年11月3日、ギリシャ支援のためイギリス軍がペロポネソス半島に上陸した。この事態を看過しがたい危機と捉えたのがナチス・ドイツのヒトラーである。 当時ヒトラーは英本土上陸作戦を諦め、戦争の長期化へ備えて石油を確保するため1941年の春に(前年の冬戦争で格下のフィンランド相手に苦戦した)ソ連へ侵攻する計画を進めていた。ところがもしギリシャが連合国軍の橋頭堡になり、バルカン半島に戦線が築かれると、この計画が成立しなくなる恐れが出てきたのである。 12月13日、ヒトラーはギリシャ侵攻のための「マリタ」作戦の立案を下命。ところがここでさらにイタリアが問題を起こした。12月6日、北アフリカの伊領リビアからエジプトへ侵攻したイタリア軍がイギリス軍の反撃に遭って惨敗、リビア領内まで敗走を開始したのである。ドイツ軍は同盟国救援のため、想定外の戦域へ二か所も、ソ連侵攻に動員する予定の戦力を回さなければならなくなった。 ドイツの計算はさらに狂った。延期しつつもソ連侵攻の準備を進めるため、ヒトラーは1940年冬から41年の春にかけてハンガリー、ルーマニア、ブルガリアとの間に同盟関係を構築していたが、1941年3月27日、最後に残ったユーゴスラビアとようやく同盟を成立させた二日後、同国でクーデターが起こってユーゴスラビアが連合国側に回ってしまったのである。 ヒトラーは、バルカン半島をこれ以上放置することはできなかった。こうして1941年4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビアとギリシャへ侵攻した。
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