ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革
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「騎士戦争」の記事における「ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革」の解説
エラスムス(1517年頃) イタリアに始まったルネサンスの一派である人文主義がドイツに伝播すると、ドイツ独自の特徴を帯びるようになった。その特徴の一つは、イタリア人らが古代ローマやギリシアを古典として学ぼうとしたのに対して、ドイツの古代を古典として研究するグループが現れたことである。これによってドイツでは愛国主義が萌芽した。 もう一つの特徴は、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の研究を行って聖書の原文を読解しようというグループが現れたことだった。これはカトリック教会による「公式」なラテン語聖書に対する批判に繋がることになり、カトリックの教義や制度に対する疑義を生じさせることになった。 こうしたドイツの人文主義者の代表がエラスムスである。エラスムス自身はカトリックの司祭であり、カトリック教会の内部からの批判を行ったものの、あくまでもカトリック教会の下僕として振る舞った。 エラスムスの影響を受けた人文主義者の中からは、もっと手厳しい教会批判を行う者が現れた。彼らは反ローマの機運を醸成していき、その中からルターが出現して苛烈な教会批判を行い、1517年に宗教改革の戦端を開いた。 とは言え、人文主義者の多くは、はじめのうちは宗教改革を遠巻きに眺めるだけだった。彼らはルターが始めた争いを「僧侶の喧嘩」とみなしていた。しかし、1519年にライプツィヒで行われたルターとヨハン・エックの討論を境に、評価が変わることになった。エラスムスの主張に感銘を受けた人文主義者の中から、ルターに賛同して教会を厳しく批判し、反ローマの立場を鮮明にした宗教改革者たちが続々と現れた。
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