GP55船団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/31 22:18 UTC 版)
GP55船団(GP55せんだん)は、第二次世界大戦、太平洋戦争中期の1943年6月に、シドニーからブリスベンへ運航された連合国軍の護送船団である。当時、オーストラリア東海域で一連の通商破壊を実行中だった日本潜水艦に襲撃され、輸送船2隻が沈没・大破する損害を受けた。同船団は日本潜水艦の襲撃を警戒して従来の2倍の数の護衛艦が付いていたが、被害を防げなかった。同船団の被害は、オーストラリア東海域における日本潜水艦による連合国艦船被害の最後の事例となった。
注釈
- ^ CO2船団の輸送船8隻は、アメリカ駆逐艦「パーキンス」及びオーストラリアコルベット「ワイアラ」(en)に護衛されて6月11日にニューカッスルを出港したが、翌12日午前1時頃にシドニー北東40海里付近へ差し掛かった時に「伊24」の襲撃を受け、隊列から後れていたパナマ船籍商船「グァテマラ」(5967トン)が魚雷を受けて沈没した[6]。
- ^ a b 鉱石船「アイアン・ナイト」は、その他の輸送船9隻とともにオーストラリアコルベット「ミルドゥラ」(en)と「タウンズビル」(en)に護衛されたOC68船団を構成していたが、ニューカッスルへ向けてモンタギュー島(en)沖21海里の地点を航行中の1943年2月8日午前2時25分、「伊21」の雷撃により撃沈された。乗員50人のうち14人が自由フランス軍駆逐艦「ル・トリオンファン」により救助されたが、その他は死亡した[8]。
- ^ 戦果の内訳は次のとおり[10]。「伊177」:撃沈2隻(計11946トン。うち1隻は病院船「セントー」[11])。「伊178」:撃沈1隻(7176トン)。「伊180」:撃沈2隻(計4376トン)、撃破2隻(計7713トン)。
- ^ この貨物船「ポートマー」は、ダーウィン空襲で一度損傷擱座して、シドニーで復旧された船であった[13]。
- ^ 「伊174」は5月16日にトラック泊地を出撃後、5月26日からオーストラリア東方海域の哨戒配置に就いていた。6月1日にブリスベン沖で6000トン級の独航船に魚雷4発発射したが命中せず、6月7日にシドニー沖で独航船に魚雷4発を発射して2発命中撃沈と判断したが該当する連合国側記録がない[14]。このほか、6月4日にモートン岬南東30海里でアメリカ軍輸送船「エドワード・チャンバース」(4113トン)と浮上砲戦を行い、1発命中と判断したが[15]、連合国側記録によると命中弾はなかった[13]。
出典
- ^ a b Gill (1968) , p. 256
- ^ a b c Stevens (2005) , p. 233
- ^ 防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、164-165頁。
- ^ Gill (1968) , p. 75
- ^ a b c d Gill (1968) , p. 77
- ^ a b Gill (1968) , p. 78
- ^ 防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、169-170頁。
- ^ a b c Gill (1968) , pp. 252-253
- ^ 防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、228頁。
- ^ a b c 防衛研修所(1979年)『潜水艦史』、229頁。
- ^ a b c 防衛研修所(1979年)『南東方面海軍作戦(3)』、171頁。
- ^ Gill (1968) , p. 257
- ^ a b c d e f g h i Gill (1968) , p. 261
- ^ a b 南部(1999年)、77頁。
- ^ 南部(1999年)、74頁。
- ^ a b 南部(1999年)、78頁。
- ^ a b c 南部(1999年)、80-81頁。
- ^ Stevens (2005) , p. 235
- ^ a b Gill (1968) , p. 262
- ^ a b c Stevens, David (2001-06). “The naval campaigns for New Guinea”. Journal of the Australian War Memorial (Australian War Memorial) (34) .
- ^ 防衛研修所(1979年)『南東方面海軍作戦(3)』、494-495頁。
- ^ Stevens (2005) , pp. 246-248
- 1 GP55船団とは
- 2 GP55船団の概要
- 3 結果とその後
- 4 参考文献
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