第四十一駆逐隊
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1944年(昭和19年)7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が編成される。第41駆逐隊司令には、駆逐艦雪風駆逐艦長や第21駆逐隊司令等を務めた脇田喜一郎大佐が任命された。脇田は第41駆逐隊司令駆逐艦を「冬月」に指定した。 同時期、日本海軍は南西諸島やフィリピン方面に増援輸送作戦を実施していた。7月中旬、第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)は軽巡洋艦長良、重重巡洋艦摩耶、練習巡洋艦鹿島、駆逐艦5隻(浦風型駆逐艦〈浦風、清霜、朝雲〉、松型〈竹〉、秋月型〈冬月〉)という艦艇で、陸軍諸部隊の沖縄方面輸送作戦「ろ号作戦」を実施する。出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と冬月艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編成である。小発動艇2隻を積んでいた冬月には、兵員約250の搭載が見込まれた。 北九州門司に集結した「ろ号輸送部隊」は、7月15日に中津湾を出港する。17日に沖縄島南東部中城湾へ到着した。ここで、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と、第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離する。第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った。宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった。第三輸送部隊は、輸送任務を終えて18日夜に中城湾へ帰投した。19日、残りの輸送部隊は沖縄を出発する。帰路、冬月の機関故障があったが、翌日の内地帰投をもってろ号輸送部隊は解散した。帰投後、冬月ではディーゼル発電機のクランクシャフト折損が判明する。しかし、翌23日には出動訓練に加わった。 同時期、アメリカ軍機動部隊が硫黄島や小笠原諸島に空襲を敢行していた。これに対処するため連合艦隊は空母「雲龍」を基幹とする急襲部隊(指揮官小西要人雲龍艦長)を編成した。空母雲龍、軽巡洋艦五十鈴、第41駆逐隊(霜月、冬月)という戦力である。急襲部隊は第三航空艦隊(長官吉良俊一中将) の指揮下に入り、雲龍は東京湾に進出した。冬月も8月11日に呉を出港し、13日になり横須賀に到着した。当時シンガポール方面にいた霜月も内地に戻り合流、それぞれ訓練に従事した。連合艦隊旗艦の軽巡大淀も東京湾におり、大淀の水上偵察機は急襲部隊の対空射撃訓練に協力した。雲龍が出動する事態は生起せず、9月下旬には機動部隊に復帰命令が出される。冬月は9月21日から25日の間に横須賀海軍工廠に入渠した。9月26日横須賀を出発、瀬戸内海に回航される。翌日、雲龍と第41駆逐隊は呉に到着した。 10月6日、第41駆逐隊(冬月、霜月)は横須賀に向かう。10月12日、第41駆逐隊は軽巡洋艦大淀を護衛して横須賀を出港し、大分に向かう。同日夕刻、御前崎の173度80海里の遠州灘に差し掛かったところで アメリカ潜水艦トレパンの雷撃を受けた。トレパンは相手を2隻の扶桑型戦艦と2隻の秋月型駆逐艦と判断し、魚雷を6本発射して戦艦と駆逐艦に1本ずつ命中させたと判定した。続いて艦尾発射管から軽巡大淀に対して魚雷4本を発射したが、この攻撃は失敗した。魚雷は冬月の艦首に命中し、18番フレームより先が折損して垂下した。戦死者1名。沈没には至らなかったが、発揮可能速力14ノットに低下する。自力航行で内海西部へ移動、大淀とわかれる。冬月は呉に入港し、呉海軍工廠にて修理が行われた。脇田喜一郎大佐(41駆司令)は司令駆逐艦を冬月から霜月に変更した。冬月は捷号作戦に参加できなかった。また修理の際、艦首形状は直線型に改められた。
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