最後の剣客
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:58 UTC 版)
散髪脱刀令などの文明開化の影響で町道場は立ちゆかなくなり、武芸者は困窮する。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所、地方にも及んだ。剣の道を汚す行為という批判もあったが、現在では剣術の命脈を保ったと評価されている。 明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けた。また、死ぬまで髷を解かなかった。 明治11年(1878年)、明治天皇が上野に行幸し、天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。 明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。 明治20年(1887年)11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、天覧兜割り試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作の兜を斬り割った(切口3寸5分、深さ5分)。このとき、健吉は白装束で試合に挑んでおり、失敗したら切腹をする覚悟であったという。
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