重喜とは? わかりやすく解説

じゅうき〔ヂユウキ〕【重喜】

読み方:じゅうき

狂言新発意(しんぼち)の重喜が、師の住持の頭をそることになるが、師の訓戒曲解して竹の先に剃刀(かみそり)をくくりつけてそるうち、師の鼻をそぎ落としてしまう。


重喜

読み方:ジュウキ(juuki)

分野 狂言

年代 成立年未詳

作者 作者未詳


重喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 13:35 UTC 版)

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重喜(じゅうき、生年不詳 - 1276年頃)は、軍人。束呂乣氏。

経歴

脱察剌の子として生まれた。憲宗9年(1259年)、父の下で南征に従い、左足に流れ矢を受けながら奮戦し、クビライの賞賛を受けた。父が死去すると、父の職を嗣いだ。

中統3年(1262年)、李璮の乱を征討して功績を挙げた。中統4年(1263年)、兵を率いて莒州に駐屯した。至元2年(1265年)、十字路城を築くよう命じられ、防備にあたった。軍を率いて南方をめぐり、遊撃軍として活躍した。至元4年(1267年)、抄不花の下で泗州を攻撃し、蔡千戸を軍の包囲から救出した。至元5年(1268年)、入朝してクビライの賞賜を受けた。正陽城を修築した。

至元11年(1274年)、宋軍が正陽を包囲すると、重喜は元軍の本隊と合流して宋軍を撃破した。至元12年(1275年)、漣海諸城の平定に従い、宋将の李提轄を撃破して、瓜洲に駐屯した。至元13年(1276年)夏6月、宋の都統の姜才が進攻してくると、これを迎え撃ってしりぞけた。秋7月、宋将の李庭芝を泰州で攻撃し、昭勇大将軍・婺州路総管府達魯花赤に進み、死去した。

子の慶孫が後を嗣いだ。

伝記資料

  • 元史』巻123 列伝第10
  • 『元史』巻133 列伝第20


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