江南戸鈔
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江南(モンゴル語による呼称は「マンジ」)地方におけるアガル・タマルの徴収について、最も詳しく記載しているのが『元典章』巻24戸部10投下税の「江南無田地人戸包銀」である。 至元二十年八月……『去年、さきの皇帝の兄、弟、姫、婿などに賜わった江南の民戸には、税糧だけを課し、その他の諸税は一切取りませんでしたが、すでに各投下に民戸を賜わった以上、民戸がなんのアガル・タマル(阿合探馬児)も納めないのは、よろしくないと思います。わたくしたちが適当に処理して、改めて奏上したいと思いますが、いかがなものでしょうか』と奏上したところ、『そうせよ』と皇帝が申された。それで、さらにつぎのように……奏上したところ、ジャルリグ(聖旨)が降って『そうせよ。すでに投下に民戸を与えた以上、民戸がアガル・タマルを納めないのはよろしくない。そのような事情なのだから投下に対しして、はっきり言ってやれ。中書省のビチクチに申しつけて、知らせてやれ。江南の民戸はまだ整理されていないのだから、今のところ諸税は一切課さないようにせよ。いま、官銭のうちの1万戸分のアガル・タマルから100錠の紙幣を投下に与えよ。そして後に民戸の整理ができ上り、体例が定まった時に、アガル・タマルを取ることにせよ、と投下に言ってやれ。これを欽めよ』とあった。…… — 『元典章』巻24「江南無田地人戸包銀」 以上、『元典章』が明記するように、江南(マンジ)地方においても当初は華北(ヒタイ)地方同様のアガル・タマル徴収が行われる予定であったが、江南統治の混乱によりなかなか実現しなかった。そこで、臨時的措置として江南からの税収から10,000戸あたり100錠の紙幣(交鈔)をアガル・タマルとして投下領主に与えるようになった。なお、「10,000戸あたり100錠」を換算すると「1戸あたり鈔5銭」となる。 このように、クビライ時代の江南におけるアガル・タマルの徴収・分配方法はあくまで「臨時的措置」に過ぎなかったが、結局この手法は大きな変更を経ることなく元末まで続くことになる。クビライの後を継いだオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)は即位直後に中書省の申請に従って1戸ごとの徴収額を500文(5銭)から2貫へと4倍にしたが、徴収・分配方法についてはクビライ時代のままとした。こうして、「1戸ごとに2貫分を税収から差し引き、交鈔として投下領主に分配する」というやり方が江南におけるアガル・タマルとして定着し、これを漢文史料上では江南戸鈔と呼んでいる。 ジャヤート・カアン(文宗トク・テムル)即位記念として編纂された『経世大典』、そして『経世大典』を典拠として編纂された『元史』巻95食貨志3では「五戸絲」と「江南戸鈔」によって諸王・功臣に与えられた人口・土地を記している。例えば、『元史』巻95食貨志3冒頭に挙げられるダアリタイ家(太祖叔答里真官人位)の條には、「五戸絲」として寧海州の1万戸が、「江南戸鈔」として南豊州の1万1千戸が、それぞれ与えられたと記されている。
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