江南平定
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順治2年5月(1645年6月8日)に豫親王ドドが南明の首都南京を占領すると、勝利に気をよくしたドルゴンは「辮髪令」を下す。これに対して江南の漢人の猛烈な抵抗が巻き起こり、南京を含む江南の占領政策に支障をきたした。そのため同年6月に洪承疇を招撫江南各省総督軍務大学士に任命し、ドドに代わって江南各省の宣撫工作に向かわせた。在任中、洪承疇は極力満人・漢人の対立を緩和するために主に宣撫策を用いた。但しあくまで明王室に忠義を尽くそうとする勢力に対しては武力弾圧・大量虐殺も行っており、元明臣の洪承疇の行為としては世間の罵られる事になる。 順治4年(1647年)、洪承疇は父を亡くして故郷へ帰って喪に服した。
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