その後の高麗王室
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「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「その後の高麗王室」の解説
高麗は、元に征服された他の国々とは違い、独立国家としての地位を保った。その後、高麗王室と元皇室や元の貴人は互いに姻戚を結び、4代の高麗王は元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗王」の地位を得る。元宗の子の忠烈王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)にクビライの皇女クトゥルク=ケルミシュ公主(斉国大長公主 忽都魯堅迷失)が下嫁した。 第1・2次の征東行省において高麗国王は次官(長官は右丞相の阿剌罕、阿塔海ら)となった、第3次では無官となるが忠烈王の復位した際に再び左丞相に任じられた。恭愍王(在位1351年 - 1374年)に至るまで約80年間、歴代国王は世子の時期にモンゴル宮廷に人質(トルカク)として赴き、ケシクなどのモンゴル宮廷での歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王が逝去した後に帰国し、高麗王に就くのが慣例となる。 クビライ時代は「帰順が遅かった叛逆諸侯のひとつ」としてクビライからカルルク王家と比べられてなじられる場面もあったが、クビライ晩年に起こったナヤン・カダアンの乱の鎮圧にも従事し、その鎮圧にあたった皇孫テムルがクビライを継いでモンゴル皇帝に即位すると、高麗王家の地位は上がった。しかし、クビライ王家との姻戚を深めることは同時にテムル没後のクビライ王家内における皇位継承紛争の影響を直接受けることに繋がり、モンゴル宮廷の高麗王族・官僚と高麗王室で確執が生じ、大都宮廷での内紛に伴うモンゴル皇帝の交替に伴い高麗王の改廃も生じる事態となった。また、高麗から宮廷などへ高麗王族と貴族が出仕する例が増え、高麗国内よりも高位の職を得る人物も出現した。元朝最後の皇帝(カアン)となったトゴン・テムルの皇后となりアユルシリダラ(北元2代ハーン)を生んだ完者忽都皇后(奇皇后)は、高麗からモンゴル宮廷に宮仕えのために出された宮女であった。
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