その後の高麗王室とは? わかりやすく解説

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その後の高麗王室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻」の記事における「その後の高麗王室」の解説

高麗は、元に征服され他の国々とは違い独立国家として地位保ったその後高麗王室と元皇室や元の貴人互いに姻戚を結び、4代高麗王は元朝宮廷において最高ランク金印紐を授けられる諸王駙馬のひとつ「駙馬高麗王」の地位を得る。元宗の子忠烈王在位1274年 - 1298年復位1298年 - 1308年)にクビライ皇女クトゥルク=ケルミシュ公主斉国大長公主 忽都堅迷失)が下嫁した第1・2次征東行省において高麗国王は次官長官右丞相阿剌罕、阿塔海ら)となった第3次では無官となるが忠烈王復位した際に再び左丞相任じられた。恭愍王在位1351年 - 1374年)に至るまで約80年間、歴代国王世子時期モンゴル宮廷人質(トルカク)として赴き、ケシクなどのモンゴル宮廷での歴代モンゴル皇帝近辺での職務従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王逝去した後に帰国し高麗王に就くのが慣例となる。 クビライ時代は「帰順遅かった叛逆諸侯のひとつ」としてクビライからカルルク王家比べられてなじられる場面もあったが、クビライ晩年起こったナヤン・カダアンの乱鎮圧にも従事し、その鎮圧あたった皇孫テムルクビライ継いでモンゴル皇帝即位すると、高麗王家地位上がった。しかし、クビライ王家との姻戚深めることは同時にテムル没後クビライ王家内における皇位継承紛争影響直接受けることに繋がりモンゴル宮廷高麗王族官僚高麗王室確執生じ大都宮廷での内紛に伴うモンゴル皇帝交替に伴い高麗王の改廃生じ事態となったまた、高麗から宮廷などへ高麗王族貴族出仕する例が増え高麗国内よりも高位の職を得る人物出現した元朝最後の皇帝カアンとなったトゴン・テムル皇后となりアユルシリダラ北元2代ハーン)を生んだ完者忽都皇后奇皇后)は、高麗からモンゴル宮廷宮仕えのために出され宮女であった

※この「その後の高麗王室」の解説は、「モンゴルの高麗侵攻」の解説の一部です。
「その後の高麗王室」を含む「モンゴルの高麗侵攻」の記事については、「モンゴルの高麗侵攻」の概要を参照ください。

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