その後の鷹山氏とは? わかりやすく解説

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その後の鷹山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:14 UTC 版)

鷹山弘頼」の記事における「その後の鷹山氏」の解説

これ以後鷹山氏には、畠山氏被官としての活動確認できない弘治2年1556年6月大和国歳氏と布施氏が対立する畠山氏歳氏を支持し安見宗房出陣したこの際、弘頼の子政は筒井氏とともに布施方として行動しており、畠山氏安見宗房とは敵対している。 この後松永久秀方と三好三人衆筒井順慶方の対立が始まると、元亀2年1571年8月には鷹山逸は松永久秀味方となっている。一方永禄11年1568年)には鷹山寿が筒井氏方の篠原長房より知行を宛がわれており、鷹山氏が二派に分裂したことが想定されるが、天正元年1573年)に松永久秀織田信長降伏した後は筒井氏のもとで一つまとまったものと考えられる天正7年1579年10月有岡城攻め鷹山氏討死したとの噂が流れており、系図(「鷹山氏系図写」)上でこの時死亡したとされる弘頼の子・頼貞を指すとみられる。また系図には、天正8年1580年10月に頼貞の弟・頼盛が織田信長従い赴いた甲斐討死したとあり、その跡を一族の頼一が継いだとされている。頼一は筒井氏仕えて伊賀転封にも従い筒井氏改易後松倉重政頼って肥前島原死去したという。 頼一の子・頼茂は大坂夏の陣豊臣方付いて逼塞その後津山藩森家宮津藩京極家仕え京極家辞す奈良移り住んだ。頼茂の子に、東大寺大仏殿再興尽力したことで知られる公慶がいる。

※この「その後の鷹山氏」の解説は、「鷹山弘頼」の解説の一部です。
「その後の鷹山氏」を含む「鷹山弘頼」の記事については、「鷹山弘頼」の概要を参照ください。

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