その後の鷹山氏
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これ以後の鷹山氏には、畠山氏被官としての活動は確認できない。 弘治2年(1556年)6月、大和国の万歳氏と布施氏が対立すると畠山氏は万歳氏を支持し、安見宗房が出陣した。この際、弘頼の子・藤政は筒井氏とともに布施方として行動しており、畠山氏や安見宗房とは敵対している。 この後、松永久秀方と三好三人衆・筒井順慶方の対立が始まると、元亀2年(1571年)8月には鷹山藤逸は松永久秀の味方となっている。一方、永禄11年(1568年)には鷹山藤寿が筒井氏方の篠原長房より知行を宛がわれており、鷹山氏が二派に分裂したことが想定されるが、天正元年(1573年)に松永久秀が織田信長に降伏した後は筒井氏のもとで一つにまとまったものと考えられる。 天正7年(1579年)10月、有岡城攻めで鷹山氏が討死したとの噂が流れており、系図(「鷹山氏系図写」)上でこの時死亡したとされる弘頼の子・頼貞を指すとみられる。また系図には、天正8年(1580年)10月に頼貞の弟・頼盛が織田信長に従い赴いた甲斐で討死したとあり、その跡を一族の頼一が継いだとされている。頼一は筒井氏に仕えて伊賀転封にも従い、筒井氏改易後は松倉重政を頼って肥前の島原で死去したという。 頼一の子・頼茂は大坂夏の陣で豊臣方に付いて逼塞。その後、津山藩森家、宮津藩京極家に仕え、京極家を辞すと奈良に移り住んだ。頼茂の子に、東大寺大仏殿の再興に尽力したことで知られる公慶がいる。
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