その後の馬門村
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一年後の明治2年(1869年)の11月6日、戦闘による放火を受けた馬門村に弘前藩から二名の使者が来訪した。弘前藩士らは対応した馬門村庄屋に「戦闘は本意ではなく、佐賀藩からの圧迫を受けてやむなく侵攻したが、それだけに馬門村の村民が気の毒でならない。弘前藩は償いとして米30俵、材木200石、すだれ1戸あたり10枚を支給したい」と被害にあった64戸、寺院1件への賠償を提案した。だが、庄屋の川村六次郎は丁重に断り、「この手厚い賠償が我が藩と他藩との前例となると、久保田藩との戦闘で同様に放火を行った盛岡藩にとって後難となる恐れがある」との理由を述べた。この対応は評判となり、争いがあった藩境の村ゆえに藩から隠密が派遣されていたのだという噂がたったほどであった。
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