その後、七日間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/03 10:13 UTC 版)
マクレラン将軍はその攻撃的行動を捨てることを選択し、包囲戦を布いてリンカーン大統領に要請した援軍の到着を待つことにした。マクレランはこの後、戦略的気運を取り戻すことが無かった(実際に戦争の全体への関与で)。 リーはマクレランの前進が1ヶ月も止まったことを利用して、リッチモンドの防御を固め、それを南のジェームズ川沿いにあるチャフィンズ・ブラフまで拡張した。ジェームズ川の南では、防衛線が南のピーターズバーグまで延ばされた。新しい防衛線の長さは約30マイル (50 km)になった。リーは防衛線構築の時間を稼ぎ、攻撃に備えるために、少数の部隊を実際の勢力よりも大きく見せる戦術を繰り返した。マクレランはJ・E・B・スチュアートの大胆不敵な(しかし一方では軍事的に掴み所のない)騎兵隊が北軍の回りを乗り回すこと(6月13日-15日)でも神経を苛立てられた。 半島方面作戦の第2段階は、リーが七日間の戦い(6月25日-7月1日)においてリッチモンドの東で激しい反撃を始めたことで、北軍にとっては後ろ向きの展開になった。これらの戦闘で南軍は意義有る戦術的勝利を挙げられなかった(最終日のマルバーンヒルの戦いは南軍の決定的敗北)が、リーの攻撃の粘り強さと、突然その西側に現れたストーンウォール・ジャクソンの「歩く騎兵」隊はマクレランのやる気を無くし、マクレランはその軍をジェームズ川の基地まで後退させた。リンカーンは後にポトマック軍をワシントンD.C.地域まで引き返させ、ジョン・ポープの北バージニア方面作戦と第二次ブルランの戦いを支援させた。バージニア半島は1864年5月まで比較的静穏であったが、この時はベンジャミン・バトラーがバミューダ・ハンドレッド方面作戦の一環として再度侵入した。
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