その後、晩年と逝去と聖バルナバ・ミッションの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)
「コンウォール・リー」の記事における「その後、晩年と逝去と聖バルナバ・ミッションの終焉」の解説
無らい県運動が強まり、栗生楽泉園が開所された。湯の沢集落を移転、消滅するのは政府の意向で、熊本の本妙寺事件のような実力行使はなかったが、反対する住民に特別高等警察が来て、脅迫したという。 1930年、草津聖バルナバ教会の信徒数569名。 1932年12月、湯の沢集落吸収の目的で、栗生楽泉園の一部が開所。病者の収容を開始。 1933年、リーは喜寿を迎えた。健康を害し一時帰国した。 1935年、一時湯の沢に戻ったが1936年兵庫県明石市に移り住んだ。ミッションの運営はメアリ・マギルに委ねられた。 1939年 勲六等瑞宝章受章。 1940年11月、医院理事会は解散を決議。 1941年4月13日、聖バルナバ・ミッションの解散式がおこなわれた。一切をらい予防協会に寄付。患者は栗生楽泉園に収容されることになった。 1941年12月18日、明石にて逝去。 1942年5月26日、納骨式。聖バルナバ教会の納骨堂に安置される。 1942年12月、湯の沢部落消滅。 1943年草津町、寄贈された「リー女史の山」を「頌徳公園」として開園。
※この「その後、晩年と逝去と聖バルナバ・ミッションの終焉」の解説は、「コンウォール・リー」の解説の一部です。
「その後、晩年と逝去と聖バルナバ・ミッションの終焉」を含む「コンウォール・リー」の記事については、「コンウォール・リー」の概要を参照ください。
- その後、晩年と逝去と聖バルナバ・ミッションの終焉のページへのリンク