その後 [編集]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/21 03:32 UTC 版)
「センターヴィル軍用鉄道」の記事における「その後 [編集]」の解説
1862年4月30日、資材の元の所有者であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は、センターヴィル軍用鉄道の調査に出向き、5月7日には遺棄された資材の回収を試みた。ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のレールには刻印がされているため容易に判別が可能であり、実際にストーンウォール・ジャクソン大佐のボルチモア・アンド・オハイオ鉄道襲撃(Great Train Raid of 1861)の際にヴァージニアの民兵と南軍が鹵獲したたものであった。しかしながら5月20日、北軍の補給担当士官は、保管されていた分も含めて、センターヴィル軍用鉄道に使われたレールは北軍の他の鉄道計画のために使用すると決定した。翌日、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の社長であるジョン・ギャレット(John W. Garrett)は、北軍がマナサスギャップ鉄道を補修しシェナンドー渓谷のナサニエル・バンクス少将への補給を容易にする計画であることを知り、これに対する抗議の手紙を送っている。 5月24日、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道は資材に関する詳細な報告書を提出した。6月7日、北軍は資材は返却せず、必要な場所で使うとの再度返答した。6月9日、ギャレットはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道を修復するほうが、北軍全体のためにもより重要であると再反論した。最終的にはこのギャレットの要求が受け入れられ、7月末にはセンターヴィル軍用鉄道のレールは、全て元の所有者であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道に返却された。 「レールが取り外されると、世界初の軍事専用鉄道の跡は草木によってすぐに消失した。ごく一部を除いて、その存在はほとんど忘れ去られた。」
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