その後、終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 17:57 UTC 版)
1938年11月には駐オランダ公使に転任。続いて1940年10月には駐ブラジル大使となった。1941年12月の日英、日米開戦はブラジルの首都であるリオ・デ・ジャネイロで迎えることとなった。日本と敵対関係になかったブラジルは当初態度を保留したため、石射は日本の同盟国であるドイツ、イタリア両大使とともにブラジルの対枢軸国参戦を阻止すべく各種工作を行ったものの、ブラジルは1942年1月にアメリカやイギリスからの政治的圧力を受けて、日本とドイツ、イタリアとの国交を断絶しその後交戦状態に入った。 石射は帰国までの間、在ブラジル日本人の帰国に向けた準備及び保護活動などを中心におこなったが、ブラジル当局が日本政府による駐日ブラジル大使館員への冷遇へ対抗し同様の措置を行ったことから、石射らは1日1時間の監視付き以外は外出を禁じられ事実上の監禁生活を送ることとなる。しかし、日本当局が駐日ブラジル大使館員に対する待遇を軟化させたことを受けて3月に監禁は解かれ、8月に戦時交換船で帰国した。 英米との開戦後、日本は多くの国と国交を断絶したため、大勢の待命外交官が生じることとなった。1942年12月、これらの待命外交官を集める形で外務省内に戦時調査室が設置され、石射は帰国後にその主宰を引受けることとなった。 戦争の帰趨が見えてきた1944年8月、突然駐ビルマ大使を命じられる。当時イギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合国に対して日本が劣勢に転じていたことから、「無事で帰れまい」ことを覚悟に赴任、1945年8月の終戦はビルマで迎えることとなった。石射は当時の国家代表で日本に協力的であったバー・モウを伴っての逃避行のあと、ビルマの隣国で当時は日本と敵対関係にあったタイに脱出し、そこでタイと同盟関係にあったイギリス軍に拘留されたが、1946年7月にようやく帰国を果たした。 帰国後の8月7日、外務省に辞表を提出、外交官生活は終焉した。同28日には駐ビルマ大使という要職にあったことを理由にGHQから公職追放を受けた。石射の長男周蔵によると「そもそもは戦後の公職追放解除訴願のために自己の過去の経歴を書き始めたものであった」とされる回想録『外交官の一生』を執筆した。晩年は、東京都北区西ヶ原四丁目の自邸で穏やかに過ごした。
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