その後・南スーダン独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/09/30 02:24 UTC 版)
「スーダン・アフリカ民族同盟」の記事における「その後・南スーダン独立」の解説
ウィリアム・デンの穏健路線に反対したSANU亡命指導者たちは、ウガンダの首都カンパラで新たにアザニア解放戦線(英語版)を結成した。 1965年から1967年にかけて、ジョゼフ・オドゥホはアザニア解放戦線議長(党首)を務めた。しかし、オドゥホはアニャニャ司令官であったジョゼフ・ラグ(英語版)将軍と路線をめぐり対立した。ラグ将軍は政治指導部に対する軍事部門の優位を主張していた。また、同時に赤道州の狭い範囲での組織維持を志向したのに対して、オドゥホは南部スーダンの広範囲な団結を主張した。結局、オドゥホは1971年こうした対立の結果、亡命者グループから離反することとなる。 ウィリアム・デンの子、ヌヒアル・デン・ヌヒアル(英語版)は、父の暗殺後、ジョン・ガラン大佐率いるスーダン人民解放軍に参加し、南部スーダン自治政府のスーダン人民解放軍担当大臣(軍務大臣)を経て、南スーダン共和国国防相に就任した。 SANUは、党として連邦制による自治権の拡大から、さらに踏み込んで南スーダンの独立と自決の主張と政策を転換していった。 現在の党議長(党首)は、トビー・マドゥオト(英語版)博士である。 南スーダンが独立し、総選挙で4議席を獲得した。
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