父の暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 21:20 UTC 版)
父・家親は毛利氏を後ろ盾に備中国のほぼ全域及び備前国の一部を勢力下におさめ、備前・美作への勢力拡大を図っていたが、正攻法では叶わぬとみた宇喜多直家によって永禄9年(1566年)に遠藤秀清・俊通兄弟に暗殺されてしまう。 家親の死後、長兄・元祐は既に備中庄氏の養子となっていたので次男である元親が三村氏の家督を相続し、宇喜多氏への復讐を狙い、永禄10年(1567年)に約2万の兵を率いて備前に進攻するも、わずか5千の宇喜多勢に大敗する(明善寺合戦)。これがもとで佐井田城主・植木秀長が宇喜多方へ寝返るなど備中における三村家の威光は衰えを見せたが、毛利氏の支援もあり、元親はこれを押しとどめることができた。
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