父の後継者候補として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:55 UTC 版)
「バースィル・アサド」の記事における「父の後継者候補として」の解説
大病を患った父のハーフィズが1984年に復帰すると、バースィルは父に付き添うようになった。もともとは、バースィルの叔父のリファアト・アリー・アサド(英語版)がハーフィズの後継者として選ばれていたが、リファアトは、1984年にハーフィズが心臓病で一時意識不明になっていた間に政権奪取を試み、そして失敗したため、国外追放になった。この事件以来、バースィルに帝王学が授けられるようになった。 バースィルは1987年にはシリア国内で広くその名が知られるようになった。この年、彼は障害飛越の馬術選手として大会に出場し、いくつかのメダルを獲得した。バースィルの見事な馬さばきをシリア・バアス党(英語版)の機関紙は称揚し、バースィルを「黄金の騎士」と呼んだ。バースィルはまた、車好きでも知られ、友人たちにはカリスマと指導力があると言われていた。バースィル・アサドは、すぐに大統領保安室の室長(Head of Presidential Security)に任命された。1989年にはシリア・コンピュータ・ソサエティ(英語版)の立ち上げも行っている。この組織は後に弟のバッシャールが会長に就任することになる。 ハーフィズは1990年代前半に、バースィルをシリアの次期大統領に据えるべく、種々の努力を払った。例えば、1991年の大統領選でハーフィズが再選に成功すると、大統領は新聞などで「アブー・バースィル」(バースィルの親父どの)のクンヤで呼ばれるようになった。また、ハーフィズは息子をサウジアラビア国王ハファドやヨルダン国王フセインなどアラブや欧州の政治指導者に引き合わせた。バースィルはヨルダン国王フセインの息子たちと非常に親しい間柄になった バースィル・アサドはレバノンの諸問題に重要な役割を担い、レバノンのすべてのセクトに顔を覚えられるようになった。また、政府内の汚職を一掃するキャンペーンへの取り組みが大々的に報道されたり、国軍への政府の影響力を示すためのレセプションに軍服を来て出席したことが頻繁に報道されたりした。
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