父の朱松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:02 UTC 版)
朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097年 - 1143年)である。 朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともの転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4年9月15日(1130年10月18日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。 その後しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった。 地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松はもともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。 なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。
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