父の死――贅沢を反省
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1929年(昭和4年)1月、馬込文士村での基次郎との一悶着に触れた尾崎士郎の「悲劇を探す男」が『中央公論』に掲載された。4日未明、59歳の父・宗太郎が心臓麻痺で急逝した。退職金が底をついたことを、前年の暮にヒサから聞いた宗太郎はがっかりし、正月からずっと酒を飲み続けていた。基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食にはパン、バターは小岩井農場製、紅茶はリプトンのグリーン缶、昼食は肉食やまぐろの刺身)による両親への経済的負担を反省し、〈道徳的な呵責〉を痛感した。 同月、中谷孝雄は徴兵猶予が切れて福知山歩兵第20連隊の入営が決まり、基次郎の弟・勇は広島電信隊第7中隊に入営した。ラジオ店の経営は兄・謙一が会社帰りに週に2、3回立ち寄って何とか賄った。この頃から、基次郎は近所の人々の実生活を意識的に見るようになった。 基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、マルクス『資本論』などの経済学の本を読み、3月、中之島公会堂で行われた河上肇の演説会「同志山本宣治の死の階級的意識」を聴き厳粛な気持になった。後輩で『青空』同人だった浅沼喜実は共産党員となっていたが、この頃に新潟県で逮捕された。4月、三高の後輩で『真昼』同人の土井逸雄の赤ん坊が亡くなり慰めた。 4月中旬、弟・勇が肺尖カタルとの診断により現役免除で帰宅した。基次郎はずいぶん心配したが、実は勇が一家の大黒柱であるという住吉警察署の請願書が認められての取り計らいであった。下旬には、『青空』同人の龍村謙(実家が西陣織)がゴブラン織研究のためにフランスに渡ることになり、神戸港まで見送りに行った基次郎は、「榛名丸」の甲板上で「行きたいなあ」と何度もつぶやき、「僕の代わり見て来てくれ」と泣いた。 7月、弟たちや近所の娘たち(永山家の姉妹の豊子と光子)と浜寺海岸に海水浴によく行った基次郎は、健康のために日焼けをし、帰省していた淀野隆三や武田麟太郎とも会った。8月に町名が住吉区王子町2丁目44番地に変更された。 この頃、基次郎は親しい川端夫人への手紙に、〈小さい町の人達がどんな風に結核にやられてゆくかをいくつも見聞いたしました〉と綴り、命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらした。9月、『新潮』の文藝月評で川端康成が基次郎の作品に触れた。 10月下旬、京都にやって来た宇野千代から連絡を受け、基次郎はすぐに会いに行った。千代の妹・かつ子も伴って京大病院の近藤直人を訪ねるが留守のため、四条通りを散歩し、後日また大阪で千代と2人で会った。 大阪の街で梶井と会ひ、ときには一緒に街を歩いたりした。「宇野さん、僕の病気が悪くなつて、もし、死ぬやうなことがあつたら、僕の家へ来てくれますか」と、例によつて、眼を糸のやうに細くして笑ひながら言つた。「ええ、行きますとも」と私は答へた。「そして、僕の手を握つてくれますか」と重ねて梶井は言つた。「ええ、握つて上げますとも。」と私も重ねて答へた。(中略)梶井はそれからぢきに死んだ。梶井が死んだと言ふことは、勿論、その家族から私のところへは知らせては来なかつた。家族の私に対する感情は、かうもあらうかと言ふことを私は察してゐた。 — 宇野千代「あの梶井基次郎の笑ひ声」 北川冬彦から詩集『戦争』(10月刊行)を送られ、基次郎はその評論を書き、堀辰雄、川端康成と横光利一が参加している雑誌『文學』11月号に発表した。11月、基次郎は体調が思わしくない中、除隊を控えた中谷孝雄のいる福知山歩兵第20連隊に面会に行って一泊するが、帰りの駅の階段で汽車の煤煙を吸い込み呼吸困難となり、数日間寝込んだ。 12月、東京から兵庫県芦屋市に転居した宇野千代が神戸に引っ越したため、基次郎はまた会いに行った。千代が初めて新聞小説を連載することを聞き、基次郎はその題名に「罌粟はなぜ紅い」と付けてやった。神戸に一泊して実家に戻った基次郎は、「のんきな患者」に取りかかり、眠れないほど執筆が進んだ。中旬、淀野隆三の家に清水芳夫と泊ったが、帰りのタクシーで呼吸困難となり、1週間ほど寝込んだ。
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