「生きた生活」を描くこと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
「のんきな患者」の記事における「「生きた生活」を描くこと」の解説
身近な下町の人々への関心と共に、基次郎は父・宗太郎の死後、マルクスの『資本論』を読み始め、〈左傾や右傾やの問題ではなく大そう面白い〉と感じて社会的なものへの関心が高まった(詳細は梶井基次郎#父の死――贅沢を反省を参照)。しかしながら労働していない自身が、それを机上の空論で公式的・観念的な形で作品にすることは基次郎の信念に反していた。 書くものに就いては生活が動き出して行かない以上、客観的な社会的なものは書けない。これは当然で致し方がない。若し僕が書き、それがやはりこれまでの主観的なものであり、孤立的な個人的な観照を出ないやうなものであつても、君は僕を責めないやうに。いくら資本論を読みヴアルガの経済年報を読んでも、それが直きには小説にはならない。それを書きたいなど思ふと、結局今の自分に絶望しなければならなくなる。(中略)病床にあるマルクス主義者として自分を規定しようとすることも非常に難しいことであるのを知つた。難しいといふより僕には不可能であると思へる。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和4年9月11日付) それ以前、まだ東京にいる頃にも基次郎は、プロレタリア文学の中でも窪川稲子(佐多稲子)の作品に感心し、女店員の〈生きた生活〉を描いている作者の筆力に感心していた。深川区のスラム街にも住みたいと考え、〈戦闘的な労働者と交際し現社会の最も面白いそしてもつとも活気ある部分へ触れて見たく〉現地を数度下見に行ったこともあった(しかし結核の身では居住は無理だった)。 また、北川冬彦の妻・仲町貞子が貧民街での救済事業として託児所を開いたことを〈やり甲斐のあること〉と感心していた基次郎は、〈労働を終つた父又は母の労働者が子供を連れにやつて来る風景を想像すると非常に気持よくなる〉と応援し、寄付金募集の手伝いもやりたがっていた。
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