「生きてゐる画家」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:13 UTC 版)
おそらく1940年の年も押し詰まってから、麻生三郎が「みづゑ」1941年1月号を持って竣介のアトリエを訪ねた。この号では、巻頭11ページに渡って、秋山邦雄少佐(陸軍省情報部)、鈴木庫三少佐(参謀本部情報部員)、黒田千吉郎中尉(陸軍省情報部)、批評家荒城季夫による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」(司会は「みづゑ」の編集部員)が掲載されていた。竣介は既にこの号を読んでいたが、麻生とアトリエにこもって長時間ひそひそ話を行った。この時、麻生と何を話していたのかは、麻生も竣介も詳しく語っていないので詳細は不明である。その後「みずゑ」の社長に対して、反論を書きたいとかけあい、400字詰め原稿20枚の約束で話がまとまった。原稿は1ヶ月かけて書かれたあと「みずゑ」4月号に「生きてゐる画家」の題名で掲載された。タイトルは、石川達三の発禁小説「生きてゐる兵隊」を意識したものだと見られている。 この掲載後、竣介に尾行がつくようになった。「生きてゐる画家」へは、黒田千吉郎からの再反論「時局と美術人の覚悟」が「みずゑ」6月号に掲載された。ただし、「生きてゐる画家」を意識した文章ではあるものの松本竣介を名指しで批判してはいない。なお、「国防国家と美術」の全文が、文献に再録されている。 1941年5月、友人の彫刻家・舟越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展を開く。同年、二科の会友に推される。この頃から、街を歩いて建物のスケッチをするようになる。また、藤田嗣治の技法を学ぼうとしていた。1941年9月、二科内のグループ九室会の航空美術展に「航空兵群」という絵を出品した。油彩で描いた戦争画は、これが唯一であるとみられる。2007年現在、「航空兵群」は所在不明であるため、当時の図版のモノクロ写真か複製でしか見ることができない。
※この「「生きてゐる画家」」の解説は、「松本竣介」の解説の一部です。
「「生きてゐる画家」」を含む「松本竣介」の記事については、「松本竣介」の概要を参照ください。
- 「生きてゐる画家」のページへのリンク