マルクス主義者として
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1908年(明治41年)、田島錦治に請われ、京都帝大の講師となって以後は研究生活を送る。1912年には、これまでの自己の研究を総括した論文集『経済学研究』を執筆する。1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。1914年には法学博士の学位を授与される。 「Category:法学博士取得者」を参照 帰国後、教授。1916年(大正5年)9月11日から12月26日まで『東京朝日』に『貧乏物語』を連載し、翌1917年3月に出版。大正デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、結論は、貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることだというものだった。河上は『貧乏物語』の中で「ワーキングプアが生まれるのは、富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないからである」という批判を行い、社会全体が贅沢を止め、質素倹約をすれば貧困の問題は解消されると論じた。しかし、その結論に対し、福田徳三や社会主義者の堺利彦は「現実的ではない」と痛烈に批判している。1919年1月20日、個人雑誌『社会問題研究』を創刊、1930年10月まで。 1920年(大正9年)9月に京大で経済学部長になる。その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進める。1921年(大正10年)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『改造』は発売禁止となるが、この論文はのちに虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1924年、労農派の櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した。河上は批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。『社会問題研究』に1927年2月号から1928年12月まで「唯物史観に関する自己清算」を発表。1928年(昭和3年)4月、辞職をせまられ京都帝大を辞職(依願免官)し、大山郁夫のもと労働農民党の結成に参加。1930年(昭和5年)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。 昭和恐慌のときには、河上はデフレを放置しても問題ではなく、デフレを脱却しても資本主義経済の限界は解消されないと主張した。 京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初期から地下の共産党へのカンパを開始した。はじめは組織の末端にいた活動家に対する寄付だけだったが、1931年(昭和6年)夏の頃、日大の民法学者杉ノ原舜一を介して、党中央と連絡が付き、資金を党中央に直接入れるようになった。当初は、月々百円単位(2千倍で換算して、百円は現在の20万円くらいと思ってよい)だったが、やがて、千円単位の臨時の寄付を度々頼まれるようになった。 そして1932年9月9日、河上自身が日本共産党に入党して、その地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「赤旗」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、コミンテルンが発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」をいちはやく入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で7月10日「赤旗」特別号に発表したことである。1933年1月12日、検挙された。7月6日、引退声明「獄中独語」を各紙に発表。 1933年8月1日、新生共産党事件といわれる政府による第4次検挙により、大塚金之助東京商科大学教授、風早八十二元九州帝国大学教授らとともに検挙され、治安維持法違反で豊多摩刑務所に収監される(のち市ヶ谷刑務所)。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明と転向を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。1937年(昭和12年)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に老衰と栄養失調に肺炎を併発し、京都市左京区の自宅で逝去。戒名は天心院精進日肇居士。1947年、『自叙伝』が刊行される。
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