マルクス主義研究
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フランスより帰国後パスカル研究者として日本で評価されるものの、日本国内でのマルクス主義の台頭の中、三木もマルクス主義について研究を始める。特に三木と同様にドイツに留学していた福本和夫が、マルクス主義研究で成果を上げていること知り『俺でも福本位いなことは出来る、と傲語』(戸坂潤「三木清氏と三木哲学」103ページ上段14行目より引用)し、パスカルに続いてマルクスについても研究を始める事になった。日本帰国後パスカル研究者として評価されたが、ドイツに留学し歴史哲学を志した研究者が、マルクス主義について研究するのは流行を追うことだけが目的では無く、当然の帰結であるとも言える。 しかし、三木のマルクス主義研究はあくまでも研究であって三木がマルクス主義者になったわけでは無い。親三木派の赤松常弘が『三木がマルクス主義者になったわけでは無い。』(「三木清ー哲学的思索の軌跡」79ページ15-16行目より引用 )と記載している。反三木派の戸坂潤は「三木清氏と三木哲学」の中で、三木の思想の変遷について批判している。戸坂によると三木のマルクス主義については三木の歴史哲学の発展であると述べ、マルクス主義者になったわけでは無いと論じている。戸坂によると三木は独創家では無く優れた解釈家であると批判した。戸坂は三木に対する評価が手厳しい。しかし、戸坂が三木を痛烈に批判した論文である「三木清氏と三木哲学」発表後も酒を飲み交わす仲であった。赤松は時代の状況の中で三木の著述は書かれているので時代と切り離すことは出来ないと述べている。 福本は当時の文部省留学生として三木と同様にドイツに留学し、マルクス主義を主に学び三木より一年早く1924年に帰国している。帰国後は留学中に学んだマルクス・レーニン等の論文を引用して権威づけられた論文を発表する。1926年に福本は留学で得た豊富な知識をもとに山川均の方向転換論を批判し、一気にマルクス主義の理論的指導者の地位を得ることになった。福本の理論は、マルクス主義を指導する党と、党に指導される大衆をはっきりと分離する事を基本としている。理論闘争によって革命的少数者の党を結成し、党が大衆を指導することでマルクス主義の主導権を党が掌握すべきであると主張した。福本は「福本イズム」にもとづく共産党を秘密裏に結成し、マルクス主義指導者として1927年にロシアに向かいコミンテルンの承認を得て一段の権威付けを行う事を計画する。しかし、レーニン死後のロシアではスターリンが世界永久革命を目指すトロツキーまでも追放し党を独裁していた。このため、当時のコミンテルンは山川や福本の日本共産党の独自路線を認めず、ソヴィエト連邦擁護を中心とした日本共産党に対する新方針を押し付けられ、福本は否定されマルクス主義指導者としての権威が失墜し党から離れざるを得なくなった。 福本がロシアに渡った頃、三木は上京する。1927年6月時点で友人の丹羽五郎宛に唯物史観に関する解釈を作り上げたとの書簡を送る。1927年、最初のマルクス主義論「人間学のマルクス的形態」を岩波書店「思想」に発表する。1928年5月には既に「思想」発表済みの「マルクス主義と唯物論」(8月発表)「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」(12月発表)に「ヘーゲルとマルクス」加えて四編の論文で構成される「唯物史観と現代の意識」を発表する。「人間学のマルクス的形態」は人間学から見たマルクス主義を論じており、マルクス主義における人間を論じているわけでは無く、福本に対する批判も含まれていない。しかし、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」では理論闘争の必要性を強く訴え、福本の指導者と大衆に分離する考え方を批判している。 1930年(昭和5年)5月に三木は日本共産党に資金提供していたことで逮捕される。三木の逮捕拘留中に三木のマルクス主義は歴史学者の服部之総によって観念論と否定される。具体的には、三木は「物質」を「解釈的概念」と捉えており、無条件に物質を存在として認める唯物論に相反しているため、唯物論を基本とするマルクス主義に反しているという議論である。結果として三木も福本同様にマルクス研究者としての権威が失墜した。また11月に懲役1年、執行猶予2年の判決を受けて転向を余儀なくされる。
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