マクレラン将軍
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「マクレラン将軍」の解説
北軍が第一次ブルランの戦いで敗北し、1861年古参のウィンフィールド・スコット将軍が引退したあと、リンカーンは全北軍の総司令官にジョージ・マクレランを指名した。マクレランはウェストポイントの陸軍士官学校卒業生であり、このとき35歳と若く、鉄道会社の役員をしていて、ペンシルベニア州の民主党員だった。マクレランは半島方面作戦の作戦を立て実行するまでに数か月を要したが、それはリンカーンの望んだ姿ではなかった。この方面作戦の目標はアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領することであり、そのために船でポトマック軍をバージニア半島に移動させ、陸路リッチモンドに迫る作戦だった。マクレランの動きが常に遅かったことでリンカーンと連邦議会の憤懣が募った。この作戦ではワシントンを守る軍隊の必要性はなかったが、リンカーンはマクレランの配下のいくらかの部隊が首都を守ることに固執していた。マクレランは常に南軍の勢力を過大評価しており、最終的に半島方面作戦に失敗したが、その責をリンカーンの指示にあると非難した。 1862年3月、リンカーンはマクレランを更迭し、ヘンリー・ハレックを総司令官に据えた。これはマクレランがリンカーンに戦争遂行に注意を促す押し付けの政治的助言を送った、いわゆる「ハリソンズランディング・レター」(Harrison's Landing Letter)の後のことだった。マクレランの手紙は、リンカーンに圧力をかけて新しいバージニア軍の司令官に共和党員のジョン・ポープを指名させていた急進派共和党を激怒させた。ポープはリンカーンの戦略的な希望に従って、北からリッチモンドに向けて進軍することで首都を攻撃から守る形をとった。しかしこのときポトマック軍を指揮していたマクレランに要請した援軍が到着せず、ポープは1862年夏の第二次ブルランの戦いで完敗し、ポトマック軍は2度目のワシントン守備につくしかなくなった。1862年には海上にも戦争が拡大した。もとはUSSメリマックと呼ばれていた南軍の装甲艦CSSバージニアがノーフォーク沖で北軍の木造艦船3隻に損傷を与えるか沈めるかし、その後、北軍の装甲艦USSモニターと交戦して損傷を受けた。このハンプトン・ローズ海戦について、リンカーンは報告書を精査し、海軍士官を尋問した。 リンカーンはマクレランがポープを支援しなかったことについて不満だったが、他に手段がなく、マクレランをワシントン周辺の全軍司令官に再登用した。このことはスワード以外の閣僚全てを当惑させた。マクレランが司令官に戻ってから2日後、南軍のロバート・E・リー将軍は、ポトマック川を越えてメリーランド州に入り(ハーパーズ・フェリーの戦い)、9月17日のアンティータムの戦いにつながった。この戦いに北軍は勝利したが、アメリカ史の中でも1日だけの戦闘としては最大級に犠牲者の多い戦いだった。この勝利で翌年1月にリンカーンは奴隷解放宣言を発すると布告することが可能になった。リンカーンはこの宣言をその前から作成してきており、それが窮余の策と思われないために軍事的勝利を待望していた。アンティータムのあとマクレランは退却中のリーの脆弱となった軍隊を追えというリンカーンの要求に抵抗した。一方、西部戦線テネシー州東部ではドン・カルロス・ビューエル将軍がそのオハイオ軍を敵軍に向けて移動させろという命令を同じように拒んでいた。その結果リンカーンはビューエルをウィリアム・ローズクランズに挿げ替えた。
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