司令部の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 16:03 UTC 版)
当初、ローはその気球が使われる1日当たり30ドルを提案された。ローは、より適切な気球制作を許されるのであれば、1日当たり金10ドル(大佐の給与)を受け入れると申し出た。また1日当たり通貨3ドルで必要なだけの隊員を雇うことも許された。ローは次の者達を入隊させることができた。父親で成功した気球乗りのクリビス・ロー、大西洋横断飛行を目指したときから志願していた船乗りのディキンソン船長、操縦士長を競っていたときにその気球を無くしていたアレン兄弟、アレン兄弟が推薦したエベン・シーバーとJ・B・スタークウェザーの2人、フィラデルフィアからの古い仲間ウィリアム・ポーリン、ドイツ人気球乗りジョン・シュタイナー、および気球制作の監督者で実任務を求めたエベネザー・メイソンだった。 ローは気球のために幾つかの場所を設定した。すなわち、モンロー砦、ワシントンD.C.、ハーパーズ・フェリーに近いキャンプ・ローだったが、自身は常に前線にあるようにした。ヨークタウンでは南軍がリッチモンドに向けて撤退するまでマクレラン将軍に仕えた。樹木の多いバージニア半島では水路を選ぶことを強いられた。気球任務はもっと遠い場所でも要請された。エベン・シーバーはイーグルを持ってミシシッピ川に行く任務を与えられ、そこの前線を助けた。スタークウェザーはワシントンを持ってバージニア州ポートロイヤルに派遣されたが、半島方面作戦の直前のことだった。
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