空軍創設直前からの動き
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「中国人民解放軍空軍」の記事における「空軍創設直前からの動き」の解説
国共内戦は、最終的に中国民衆(特に人口数の上で最大の無産階級)の支持を背景に所謂「人民戦争理論」に基づく「人海戦術」を採った共産党側が内戦の主導権を握り、圧倒的な勝利に終わった。国民党側の多くは寝返り残党は台湾に撤退した。 国民党の台湾撤退の動きは1949年初頭頃から始まっていた。共産党指導部は台湾奪取に向けて人民解放軍の編成の検討を行っていた。中国大陸と台湾の間には台湾海峡が横たわっていて、台湾攻略には海軍と空軍が是非とも必要との見解であった。1949年7月の毛沢東から周恩来への手紙には中国(共産側)が短期間で敵空軍(国民党空軍)を圧倒することは不可能であり、そのために旧ソ連軍に要員3~400人を選抜し、6~8ヵ月の教育を受けさせ、かつ100機前後の航空機を購入し、来年夏季には台湾奪取に備えたいという内容であった。1949年9月中国人民政治協商会議第1期全体会議で、毛沢東は強大な陸軍のみならず強大な海・空軍を保持する旨の発言を行った。 共産党指導部の動きと並行して、中央軍事委員会は1949年3月に東北民主連軍航空学校の教員から選抜し軍委航空局を設立した。この軍委航空局の役目は共産党の航空事業の全てを統合し指導を行いこととされ、空軍設立に備えた。中央軍事委員会は空軍司令部の設立を決定し、1949年10月25日に初代空軍司令員以下の人事を決定した。空軍司令部は1949年11月11日に正式に設立され、人民解放軍空軍が発足した。準備組織である軍委航空局は直ちに廃止された。 空軍創立後段階的に、6個の軍区司令部が設立された。1950年8月に東北軍区空軍司令部と華東軍区空軍司令部が、同年9月に中南軍区空軍司令部と西南軍区空軍司令部が、同年10月に華北軍区空軍司令部が、1951年12月に西北軍区空軍司令部が設立された。その後各軍区の名称変更が成され、司令部の設置されている都市名となった。(東北軍区→瀋陽軍区、華東軍区→南京軍区、中南軍区→武漢軍区、西南軍区→重慶軍区、華北軍区→北京軍区、西北軍区→蘭州軍区)また、軍区内に空軍司令部の他に指揮組織が設けられている所もあった。その指揮組織は福州、済南、成都の3都市に設けられた。 航空学校は空軍創立前は東北民主連軍航空学校の1校だけであったが、空軍創立時に他に6校開校し、中国人民解放軍第1~第7航空学校という名称となった。1953年末には7校から12校に増やされた。この時点で空軍は約6000名のパイロットと2万4000名のその他の航空要員を養成していた。航空要員に必要な人員は陸軍から大量に供給し、教員や装備の大部分はソ連軍の支援により成り立っていた。
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