空軍入隊まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 05:14 UTC 版)
東三省(満州)遼寧省の富農出身。本籍は安徽省宿県(現宿州市)。若い頃から「工業救国」の思想を持ち、金家屯高等小学校卒業後、奉天にある遼寧省立第一工科高級中学に入学した。満州事変勃発により、北平へ避難、後に南京に赴き1931年に中央陸軍軍官学校第9期歩兵科に合格した。1932年には前年に設立された中央航空学校(筧橋航校)に厳格な試験と体格検査に合格、第二期生として飛行技術を学んだ。なおこの頃、滬杭線の車内で出会った許希麟に一目惚れし、文通を始める。1933年12月に中央航校第二期駆逐科は卒業試験を実施、最も優秀な成績を収めた。中華民国空軍における空中射撃記録の最優秀記録保持者は2名、一人は“空軍戦神”高志航、そしてもう一人が劉粋剛である。 1934年2月1日の航空学校卒業後、駆逐(戦闘機)第1大隊に准尉見習士官として着任。同年夏に西湖湖畔の天香樓にて結婚。それから間もなく南昌教導総隊附。1935年9月7日、空軍少尉飛行隊員。その後中尉分隊長に昇進。 1936年7月には上尉として新たに設立された駆逐第5大隊第24中隊長に昇進し、隊を率いて南昌駐防の任に就いた。当時の第5大隊は中央航校卒業生の“清一色”で、大隊長は丁紀徐であった。 隊に配備されていた戦闘機はカーチス・ホークⅢ(英語版)で、劉粋剛の乗機は“2401号”であった。2401号機は、シリンダー容積を増やし馬力を強化した特殊型で、上昇力と運動性に優れていた。
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