民間事業への復帰
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ローはマラリアの余韻と戦争の疲れからの快復に努めた。ローとレオンティンはジェファーソンに戻り、家族との時間を過ごした。1863年秋にワシントンに1ヶ月戻り、陸軍長官に提出する戦時報告書を完成させ、その後はバレーフォージに農場を買って、農作業で自分を取り戻すことができた。 ローが開発した空中偵察の進歩した技術は世界中に影響が及び、イギリス、フランスさらにはブラジルまでもその軍隊のために気球司令部を組織できるならば、少将の位を提供すると申し出てきた。ローは戦争が懲り懲りだと考えその申し出を辞退したが、移動用ガス発生器を含めた装置ごと気球を各国に送った。それらの軍事専門家に助言を与え、最善の操縦者としてアレン兄弟が手助けできるよう手配した。 ローは南北戦争の間に郡の気球基地周辺を嗅ぎ回っていた1人のドイツ人若者と出合った。この若者の名前はフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵といい、気球操縦に魅せられていることは同じだった。マクレラン将軍が全ての気球に同乗することを禁止していたので、ローはフォン・ツェッペリンをメリーランド州プールズビルに派遣して、母国語でその青年をもてなすことのできるドイツ人操縦助手のジョン・シュタイナーを訪問させた。フォン・ツェッペリンは1870年代にローの気球操縦技術の全てを問う為に再訪してきた。勿論この人物が、後にその名前を冠した操縦可能な飛行船を設計することになったフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵である。 ローはペンシルベニア州ノリスタウンに新しい家を建て、そこで水素ガスに関わる科学探求を続け、熱した石炭に蒸気を通して大量の揮発性燃料が得られる水性ガス生成法を改良し特許を取った。産業革命によって東海岸の家庭は暖房や照明が変革されていた。ローは「圧縮製氷機」を完成させたことなど製氷機に関する特許も幾つか持っており、これは低温保存産業を革新させた。さらにプラチナ・マントルを通してガスを燃焼させることで明るい照明を得られることを発見した(後にコールマン・ランタンとなった)。 ローは古い蒸気船を1隻購入して冷蔵設備を備え、ニューヨークからガルベストンまで新鮮な果物を運び、帰りは牛肉を運ぶ海運業を始めた。これは保存用に塩漬けにされていない新鮮な牛肉を人々が食べられるようになったことでは歴史上初めての出来事だった。その海運業は船の運航に関する知識が欠けていたために失敗したが、この事業は他の幾つかの国でも取り上げられた。 ローはまた、水素ガスで動く製品も製造した。これらを含め幾つかの特許でローは財産を築き上げた。これらの成果に対し、人類にとって最も有益な発明に与えられる「エリオット・クレッソン・メダル」という非常に栄誉ある賞を受賞した。
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