13世紀から15世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 18:33 UTC 版)
ガーナ王国は、金を運ぶ先だったムラービト朝が衰退すると国内が混乱した。ブレ(フランス語版)における新しい金鉱は、アウダゴストやクンビ・サレーを通る交易量を減らし、代わりにマンデ人(英語版)に利益をもたらした。マンデ人は一時、スマングル・カンテが治めるソソ王国(英語版)に併呑され、交易路が荒廃した。 西アフリカ南部の交易中心部は、ベゴー、ボノ・マンソ、ボンドゥクを含むサバンナに発展した。西部の交易ルートは、現在のモーリタニアに位置するウアダン、ウアラタ、シンゲッティを交易中心部とした。東寄りのルートの周辺ではアソデ(英語版)のトゥアレグの町やニジェールに位置するアガデズが成長した。ニジェール湾に沿ったルートは、シジルマサからテガーザの塩鉱やトンブクトゥをへてマリの首都ニアニに通じていた。イブン・ハウカルやバクリーはシジルマサからアウダゴストまで50日かかると書き、14世紀の旅行家イブン・バットゥータはアウダゴストから東に約360キロメートルのワラタまで50日間かかると書いている。ワラタは南の終着点としてマリが厳しく監視をしていたとされる。 この時代には、西アフリカの政治支配者がイスラームを信仰するようになった。その目的には、地中海沿岸など北アフリカのイスラーム王朝との関係を緊密にすることも含まれていた。ファーティマ朝の遷都によって11世紀に途絶えたエジプトとの交易は、マムルーク朝によって14世紀から復活し、サハラ交易の中心が東に移りチュニジアやエジプトが繁栄し、西方のモロッコの交易は減少した。これがのちにモロッコのサアド朝が交易権をめぐってソンガイ王国を攻撃する原因となった(後述)。15世紀からはポルトガルが大西洋から海路でアフリカとの貿易を行うようになり、交易路は大西洋に向かうルートも加わった。 交易によって富を蓄えた商人の中には、文化の振興を行なったり自らが学問の世界に入る者がいた。また、イスラームを信仰する王が交易路を使ってハッジ(メッカ巡礼)を行うようになると、イスラームの学者や教師、建築家を自国へ連れ帰るようになった。こうしてトンブクトゥやジェンネなどの都市はイスラーム文化が活発になり、学問の都にもなった。
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