13世紀: 市民と教会、ミラノへの編入
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「モンツァ」の記事における「13世紀: 市民と教会、ミラノへの編入」の解説
12世紀以後、モンツァは中世都市として変容しつつあった。農業と並んで、靴の製造などの手工業も発展を見せるようになった。また、市壁の外では羊毛の生産が開始された。13世紀に建設された市庁舎「アレンガーリオ」 (Arengario (Monza)) は、近接するモンツァ大聖堂に対抗する建築物であった。アレンガリオに象徴される市民共同体(コムーネ)の実力と、大聖堂に象徴される宗教的権威・権力とは、いずれ衝突する運命にあった。また、この時代を象徴する施設としては、市場を開くことを目的とした大きな広場 Pratum magnum (今日のトレント・トリエステ広場)がある。 1221年、政治的な理由により、ミラノ大司教エンリコ・ダ・セタラ(Enrico da Settala)はモンツァの市長(ポデスタ)を破門しているが、ミラノのコムーネはモンツァのコムーネを支援している。 1242年、皇帝フリードリヒ2世を支援するために、モンツァの首席司祭アルベリコ・ダ・オレノ(Alberico da Oreno)は都市の宝物を借り受けた。しかし不幸にして、宝物が都市に返却された際には大きな黄金の盃が紛失されていた。1254年、フリードリヒ2世との戦いを展開するミラノは、かつて課した破門を取り消すことを条件としてモンツァから黄金の盃を借り出した。この盃に関しては、返却時に宝石17個が紛失されていたことが1275年の財産目録に記載されている。 モンツァは次第にミラノと共同歩調を取るようになる。1255年にモンツァは皇帝派によって略奪された。1259年、エッツェリーノ・ロマーノ (Ezzelino III da Romano) はモンツァ攻略を図るも撃退され、周辺の村落を焼き討ちにしている。 聖堂が所有していた宝物は、資金を借り受けるための担保としてさまざまな当事者の手を渡った。1273年にはモンツァにあった聖アガタ謙遜者団(Umiliati di Sant'Agata)のもとに移り、1311年には銀行家たちの手に渡って安全のためアヴィニョンに移された。代表団のメンバーであるマルティノ・アリプランディ (Martino Aliprandi) はミラノの住人であったが、もともとはモンツァの有力な家系であるアリプランディ家 (Aliprandi) に属する人物であった。宝物がモンツァの聖堂に戻ってきたのはようやく1319年のことで、これはミラノの領主であったマッテオ1世・ヴィスコンティ (it:Matteo I Visconti) のおかげであった。 13世紀後半、モンツァはミラノの支配権をめぐるヴィスコンティ家とデッラ・トッレ家 (Della Torre) との抗争に巻き込まれる。1275年、モンツァはミラノの兵士によって占領される。1277年、デージオの戦い (Battle of Desio) でヴィスコンティ家がデッラ・トッレ家に対して勝利を収めると、ミラノ大司教オットーネ・ヴィスコンティ (Ottone Visconti) とモンフェラート侯グリエルモ7世 (it:Guglielmo VII del Monferrato) がモンツァを占領した。翌年、モンツァはミラノの市長と市民に属するものであることが宣言される。
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