修道会組織の形成と発展
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「フランシスコ会」の記事における「修道会組織の形成と発展」の解説
上述のとおり、1209年、「小さき兄弟の修道会」設立についてインノケンティウス3世より承認を受け、このときの簡単な会則は「原始会則」ないし「第一会則」と呼ばれるが、急速に発展する修道会内部の問題に対処するにはあまりに簡素に過ぎたため、1221年には会則の改訂が行われた。しかし、この会則は教皇ホノリウス3世の認可を得ることができなかったため、新たにホノリウスの腹心ウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)などの協力を得て、教会法の規定を取り入れた会則(第二会則)を制定し、1224年に教皇ホノリウスの教書によって認可された。これにより、動産・不動産いっさいの財産取得と所有の禁止を盛り込んだ托鉢形式の福音活動が実践されることとなった。 インノケンティウス3世の口答での約束からホノリウス3世の正式認可までの十数年間のフランシスコ会の発展ぶりは驚異的なものであった。1216年に正式に認可されたドミニコ会の会員が、1217年頃はまだ20人程度の仲間しか持たなかったのに対し、口約束で認められただけのフランシスコ会は同じ頃すでに数千人の同志を集めていたのである。彼らは、都市を中心に説教と告白聴聞をおこない、各地の司教の許可がなくても自由に説教することが許されていたため、しばしば教区の在俗聖職者と対立したが、彼らが発展させた人間イエスやその聖母に対する新しい信仰心は中世後期の民衆キリスト教の成熟に大きな影響をおよぼした。 1226年のフランチェスコの死後、第2代総長となったのがジョヴァンニ・パレンティ(英語版)であった。その死後も、フランチェスコの人柄を慕う数多くの弟子たちが続々と修道会のもとに集まり、灰色の頭巾つきの修道服に帯ひもをしめ、裸足にサンダル履きの質素な身なりで苦行に近い清貧な生活を送りながら活動の規模を広げていった。1232年にはコルトナのエリア(英語版)(エリア・ボンバローネ)が第3代総長となっている。最初期のフランシスコ修道会の組織は、終身の総長のもとに全会員に対して責任と権限を持つ中央集権的なものであったが、第3代エリア総長の時代、彼の強権的な修道会運営に反対運動が起こり、1239年の総会議からは各地の管区に大幅な裁量を認める地方分権的な組織体制が採られるようになった。この運動で指導的役割を演じたのが、のちに第5代総長となったファヴァーシャムのハイモ(英語版)で、彼はこの地方分権体制をドミニコ会の組織に倣ったという。フランチェスコの死後の100年間で、フランシスコ会の会員数は3万人を超えるまでにふくれあがった。 当時のフランシスコ会の成長の背景として考えられるのが、都市化とそれにともなう人びとの宗教的欲求の変化であった。すなわち、フランチェスコのはじめた清貧運動がこのように短期間で巨大な広がりをもったことは、「新しい言葉」の担い手を希求していたローマ教会の後援によるばかりではなく、フランチェスコ自身の個人的な回心の体験が当時の社会、特に都市における新興エリートのかかえた精神的な危機を体現したためであり、また、その危機にひとつのかたちで応答したからであったろうと考えられるのである。都市化の進展により、人びとは旧来のような農村共同体を基盤とする、教区教会を中心として司祭を唯一の魂の導き手とするような信仰生活では飽き足らなくなっており、その一方で新しい産業の勃興、新職業の成立、貧富の格差の顕在化、無軌道な営利追求や拝金主義、性的放縦など、都市化そのものが引き起こす諸問題に直面するようになっていた。 こうして、信仰の内面化が進行し、個人としての信仰の確立が求められるようになったのに加え、それと都市生活との折り合いを図る必要が生じた。ローマ教皇庁もまた、托鉢修道会が一所定住の掟をやぶり、過激な福音主義を説く点では、異端に近い要素をかかえていたことを承知しながらも、このような動きをうまく利用することで、異端の消滅と市民の教導という当時教会がかかえていた最も重要な懸案をともに解決することが可能であるとみて、これを承認し、ときには支援したと理解される。実際上も、フランシスコ会は、ドミニコ会同様、異端審問官として活動することにより、異端に対する強力な防波堤となったのであった。 しかし、フランチェスコの回心はきわめて個人的で、また彼にとってきわめて実存的な経験だったのであり、実のところ、これほど教団組織の発展になじまないものはなかった。フランチェスコ本人が経験した、その直接性は彼の存命中にすでに修道会の発展の前に力を失いつつあり、フランチェスコ自身もそれに気づき、彼は最晩年、自らの創設した修道会の運営を他者に任せて自分は少数の最初から同志とともに隠修士の生活を送った。そのあいだ彼は「遺言」も書いているが、その「遺言」とは、会則は福音書におけるキリストと使徒の生活を示したものであり、一切の註釈も加えずにそれを実践すること、および教皇からいかなる特権も受けないことであった。歴代教皇からは、この「遺言」は黙殺され、そして、修道会はフランチェスコ自身が懸念した方向に向かっていったのである。
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