修道会組織の形成と発展とは? わかりやすく解説

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修道会組織の形成と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 10:31 UTC 版)

フランシスコ会」の記事における「修道会組織の形成と発展」の解説

上述のとおり、1209年、「小さき兄弟修道会設立についてインノケンティウス3世より承認を受け、このときの簡単な会則は「原始会則」ないし「第一会則」と呼ばれるが、急速に発展する修道会内部問題対処するにはあまりに簡素に過ぎたため、1221年には会則改訂が行われた。しかし、この会則教皇ホノリウス3世認可を得ることができなかったため、新たにホノリウス腹心ウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)などの協力得て教会法規定取り入れた会則第二会則)を制定し1224年教皇ホノリウス教書によって認可された。これにより、動産不動産いっさい財産取得所有禁止盛り込んだ托鉢形式福音活動実践されることとなったインノケンティウス3世口答での約束からホノリウス3世の正式認可までの十数年間フランシスコ会発展ぶりは驚異的なものであった1216年正式に認可されドミニコ会会員が、1217年頃はまだ20程度仲間しか持たなかったのに対し口約束認められただけのフランシスコ会は同じ頃すでに数千人の同志集めていたのである。彼らは、都市中心に説教告白聴聞おこない各地司教許可がなくても自由に説教することが許されていたため、しばしば教区在俗聖職者対立したが、彼らが発展させた人間イエスやその聖母対す新し信仰心中世後期民衆キリスト教成熟大きな影響およぼした1226年フランチェスコ死後第2代総長となったのがジョヴァンニ・パレンティ(英語版であったその死後も、フランチェスコ人柄を慕う数多く弟子たち続々修道会のもとに集まり灰色頭巾つきの修道服に帯ひもをしめ、裸足サンダル履きの質素な身なり苦行に近い清貧な生活を送りながら活動の規模広げていった。1232年にはコルトナのエリア英語版)(エリア・ボンバローネ)が第3総長となっている。最初期フランシスコ修道会組織は、終身総長のもとに全会に対して責任と権限を持つ中央集権的なものであったが、第3エリア総長時代彼の強権的修道会運営反対運動起こり1239年総会議からは各地管区大幅な裁量認め地方分権的な組織体制が採られるようになった。この運動指導的役割演じたのが、のちに第5代総長となったファヴァーシャムのハイモ英語版)で、彼はこの地方分権体制ドミニコ会組織倣ったという。フランチェスコ死後の100年間で、フランシスコ会会員数は3万人超えるまでにふくれあがった当時フランシスコ会成長背景として考えられるのが、都市化とそれにともなう人びと宗教的欲求変化であった。すなわち、フランチェスコはじめた清貧運動このように短期間巨大な広がりをもったことは、「新し言葉」の担い手希求していたローマ教会後援によるばかりではなくフランチェスコ自身個人的な回心体験当時の社会、特に都市における新興エリートかかえた精神的な危機体現したためであり、また、その危機にひとつのかたちで応答したからであったろうと考えられるのである都市化の進展により、人びと旧来のような農村共同体基盤とする、教区教会中心として司祭唯一の魂の導き手とするような信仰生活では飽き足らなくなっており、その一方で新し産業勃興新職業成立貧富の格差顕在化無軌道な営利追求拝金主義性的放縦など、都市化そのもの引き起こす諸問題直面するようになっていた。 こうして、信仰内面化進行し個人として信仰確立求められるようになったのに加え、それと都市生活との折り合いを図る必要が生じたローマ教皇庁また、托鉢修道会一所定住の掟をやぶり、過激な福音主義説く点では、異端に近い要素かかえていたことを承知しながらも、このような動きをうまく利用することで、異端消滅市民教導という当時教会かかえていた最も重要な懸案をともに解決することが可能であるとみて、これを承認しときには支援した理解される実際上も、フランシスコ会は、ドミニコ会同様、異端審問官として活動することにより、異端対す強力な防波堤となったであった。 しかし、フランチェスコ回心きわめて個人的で、また彼にとってきわめて実存的な経験だったのであり、実のところこれほど教団組織発展なじまないものはなかった。フランチェスコ本人経験した、その直接性彼の存命中にすでに修道会発展前に力を失いつつあり、フランチェスコ自身もそれに気づき、彼は最晩年、自らの創設した修道会運営他者任せて自分少数最初から同志とともに隠修士の生活を送った。そのあいだ彼は「遺言」も書いているが、その「遺言」とは、会則福音書におけるキリスト使徒の生活を示したものであり、一切註釈加えずにそれを実践すること、および教皇からいかなる特権受けないことであった歴代教皇からは、この「遺言」は黙殺され、そして、修道会フランチェスコ自身懸念した方向向かっていったのである

※この「修道会組織の形成と発展」の解説は、「フランシスコ会」の解説の一部です。
「修道会組織の形成と発展」を含む「フランシスコ会」の記事については、「フランシスコ会」の概要を参照ください。

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