儀式殺人事件、ポグロム、そして第一革命
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「反ユダヤ主義」の記事における「儀式殺人事件、ポグロム、そして第一革命」の解説
1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアのキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフでユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。 1904年から1905年にかけての日露戦争では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦のスケープゴートとされた。 1905年1月に血の日曜日事件が起きると、春にかけて各地で大規模な抗議ストライキが起きて、ロシア第一革命が6月まで続いた。2月にはモスクワ総督でロシア大公のセルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。6月には戦艦ポチョムキンの水兵が叛乱した。夏には農民一揆や、ビアウィストク、ブレスト=リトフスク、ミンスク、クリミア半島のケルチでのポグロムが発生した。8月にニコライ2世はドゥーマ(議会)の創設を許可した。9月に日本との講和条約ポーツマス条約が結ばれたが、国内の騒乱は収まらなかった。ロシア第一革命を通してユダヤ人への猜疑は深まり、セルゲイ・ヴィッテはユダヤ=フリーメイソンの陰謀に加担したとして告発された。しかし、ヴィッテもユダヤ人の横暴が度を越したと見ていた。10月、セルゲイ・ヴィッテは「国家秩序の改良に関する詔書」で立憲主義を導入して皇帝の専制権力を制限したが、ロシア皇帝はニコライ2世は反発した。十月詔書を歓迎するデモが起こり、皇帝派の対抗デモが起こった。「ユダヤ人と革命派打倒」をスローガンとする皇帝派は、数百箇所の町でポグロムを起こした。ポグロムは、ラチコフスキーの指示によって行われ、憲兵隊長コミサーロフ(Kommissarov)は、ポグロムはいつでも組織できると豪語していた。オデッサではネイドガルド総督がポグロム犠牲者に対して「これこそはユダヤ的自由だ」と言った。1905年10月の最後の10日間だけで数百件のポグロムが発生した。この年のポグロム全体の犠牲者は死者810人、負傷者1770人となった。 十月詔書直後、皇帝ニコライ2世は革命運動の9割がユダヤ人であったために反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した。ロシア政府は「革命家」を「ユダヤ人」の類義語としていた。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した。モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、ヴィッテやストルイピン首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称されるゲオルギー・プレハーノフは、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した。 1906年、蔵相ココフツォフはユダヤ人の侵入を防ごうとしても、彼らは簡単に合鍵を見つけるので無駄であり、抑圧政策はユダヤ人を苛立たせるだけであるし、行政側の不正や越権行為を助長することにしかならないので、反ユダヤ法の制定には反対した。1906年以降は、ビアウィストクとシェドルツェのポグロムで合計110人が殺害された。 1906年から1916年にかけて、反ユダヤの著作物が2837冊出版され、皇帝も1200万ルーブルの財政援助をした。クルーシェヴァンの『軍旗(ズナーミャ)』紙は、ユダヤ問題は宗教問題ではなく、人種の問題であり、ユダヤ人は「寄生虫的で貪欲な本能」を持ち「彼らの侵入を許してしまった社会には確実に死をもたらす」と報道した。政治家ニコライ・マルコフは、左派代議士に向かって「ロシア人の子供の喉を切り裂いてその血を吸うユダヤ国の末裔の正体」を暴くこともできなくなった時、正義も司法も頼りにならないとロシア民衆が確信した時には、最終ポグラムが発生して、ユダヤ人の「一人残らず、最後の一人にいたるまで、文字通り喉を掻き切られる」と演説した。 1911年3月20日、13歳の男の子の死体がキエフ郊外で発見されると、ロシア民族同盟らが儀式殺人の方向で調査し、ユダヤ人の煉瓦工場職工長メンデル・ベイリスが逮捕された。作家ウラジーミル・コロレンコは、ベイリス事件について特定の民族への偏見であると抗議した。アメリカも抗議して米ロ通商条約を破棄し、内相マカロフは訴追を断念した。しかし、法相イヴァン・グリゴリェヴィチ・シチェグロヴィートフは裁判を再開し、ベイリスは無罪とされたが、少年が儀式殺人で殺害されたことは事実と認められた。9月、キエフでアナーキストのユダヤ人が皇帝の目前でストルイピン大臣を銃撃した。 1912年、改宗ユダヤ人の2世、3世は士官への昇進を禁止された。
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