国境要塞の奮闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
満州東部方面は防衛線の最重要地区であり、特にウスリー河対岸のソ連領イマン(現・ダリネレチェンスク)を見渡せる高地を抱え、長大な満ソ国境において唯一シベリア鉄道を視認できる戦略拠点であった虎林に関東軍は虎頭要塞を構築していた。本来であればこの要塞が東部国境防衛の要となるはずであったが、関東軍の他の部隊の例にもれず要塞守備隊も兵力は次第に減らされて、ソ連参戦時にはわずか1,400人となっていた。要塞には避難してきた周囲の居留民も収容していたが、そのうち500人が義勇兵となり戦力は1,900人となった。ソ連軍も虎頭要塞の堅牢さを警戒しており、対日宣戦布告がなされる前から激しい砲撃を加え、その量はわずか2日で7,000トンにも達したが、要塞は健在であった。その後わずか1,900人に対し、2個狙撃兵師団、1個戦車旅団で攻撃してきたが、日本で唯一配備されていた試製四十一糎榴弾砲や長射程の九〇式二十四糎列車加農、七年式三十糎長榴弾砲・四五式二十四糎榴弾砲などの巨砲を駆使し、圧倒的戦力のソ連軍に大損害を与えて2週間も足止めし、8月20日に陥落した時には兵士と居留民の生存者はわずか500人となっていた。 牡丹江においても第5軍指揮下の予備士官学校の候補生で編成された特設荒木歩兵連隊が、ソ連軍の重戦車相手に肉弾特攻で応戦、身体に爆雷を結び付けての戦車への体当たり攻撃でソ連軍戦車5~6輌を撃破して攻撃を撃退し続けるなど、8月13日までは戦線を守り抜いた。こうして一部戦線ではソ連軍の足止めに成功していたものの、戦線を突破したソ連軍機械化部隊の進撃速度は早く、その急進撃に恐れをなした大本営や関東軍は主力の防衛線を「連京線」と「京図線」を結ぶ複廓陣地からさらに後退した通化周辺とするよう命令を出した。しかし、その命令を聞いた第3方面軍司令官後宮淳大将は、「110万人の居留民を見捨てることなど関東軍の面目が許さない」「軍は居留民と共に生き居留民と共に死ぬ」と断じて撤退を拒否、隷下の第30軍に「新京を死守してほしい。本官は奉天を死守する」と命じている。
※この「国境要塞の奮闘」の解説は、「太平洋戦争」の解説の一部です。
「国境要塞の奮闘」を含む「太平洋戦争」の記事については、「太平洋戦争」の概要を参照ください。
- 国境要塞の奮闘のページへのリンク