国境線の画定問題とは? わかりやすく解説

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国境線の画定問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)

万国公法」の記事における「国境線の画定問題」の解説

国際法認め主権国家となるということは、その主権がどこまで及ぶのかを確定する作業を経なくてはならない。たとえば清朝ロシアの間で結ばれた璦琿条約1858年)や、日本同じくロシア間で締結され樺太・千島交換条約1875年)などは、清朝日本両国北方国境線画定するものであった。これは東アジア諸国ロシアとの間に結ばれた国境条約であるが、やがて東アジア諸国内においても国境確定動き現れてくることは不可避であった従来からの華夷秩序に基づく統治範囲は、対象とする人や物資移動によって伸縮するものであって固定的ではなく国家辺境対す領有意識周辺諸国重複することが常態であった。そのため近代国際法に基づく固定した国境線の画定を行うとするならば、それは周辺諸国との紛争種として浮上せざるをえなかった。 琉球台湾帰属問題日本清朝主権国家とは、その主権が及ぶ範囲、つまり領土領海明確化し、そこに一元的統治を施す存在であるから華夷秩序下ではありえた中国・日本双方に両属す琉球のような曖昧な存在認められなかった。明治日本清朝の猛抗議にも聞く耳を持たず琉球処分断行し、当然琉球重要な朝貢国見なしていた清朝との関係は悪化した茂木1997)。 清・朝国境線問題朝鮮清朝国境線画定動きは、強固な宗属関係にあった清朝朝鮮の間にも持ち上がった1880年代国境線画定会談(「勘界会談」)がもたれたが、その結果豆満江図們江)・鴨緑江をもってとりあえ国境線とすることとなった実際にはこの「国境」を越えた清朝領域越境した朝鮮人多数上ったため、彼らをどう保護するかという問題とも絡んでこの後大韓帝国となって清朝との国境線画定話し合い断続的に行われたが、豆満江鴨緑江国境線とすることが次第既成事実化していった。 留意すべきなのは、このような国境画定働きかけ朝鮮側からなされたという点である。当初朝鮮華夷秩序論理拠って清朝交渉していたが、次第近代国際法における自国保護援用して交渉するようになっていった。国境線画定という問題深化とともに近代国際法受容されていったといえる秋月2002)。

※この「国境線の画定問題」の解説は、「万国公法」の解説の一部です。
「国境線の画定問題」を含む「万国公法」の記事については、「万国公法」の概要を参照ください。

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