国境線の画定問題
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国際法の認める主権国家となるということは、その主権がどこまで及ぶのかを確定する作業を経なくてはならない。たとえば清朝とロシアの間で結ばれた璦琿条約(1858年)や、日本と同じくロシア間で締結された樺太・千島交換条約(1875年)などは、清朝・日本両国の北方の国境線を画定するものであった。これは東アジア諸国とロシアとの間に結ばれた国境条約であるが、やがて東アジア諸国内においても国境確定の動きが現れてくることは不可避であった。従来からの華夷秩序に基づく統治範囲は、対象とする人や物資の移動によって伸縮するものであって固定的ではなく、国家の辺境に対する領有意識は周辺諸国と重複することが常態であった。そのため近代国際法に基づく固定した国境線の画定を行うとするならば、それは周辺諸国との紛争の種として浮上せざるをえなかった。 琉球・台湾の帰属問題(日本―清朝)主権国家とは、その主権が及ぶ範囲、つまり領土や領海を明確化し、そこに一元的な統治を施す存在であるから、華夷秩序下ではありえた中国・日本双方に両属する琉球のような曖昧な存在は認められなかった。明治日本は清朝の猛抗議にも聞く耳を持たず、琉球処分を断行し、当然琉球を重要な朝貢国と見なしていた清朝との関係は悪化した(茂木1997)。 清・朝国境線問題(朝鮮―清朝)国境線画定の動きは、強固な宗属関係にあった清朝と朝鮮の間にも持ち上がった。1880年代に国境線画定の会談(「勘界会談」)がもたれたが、その結果豆満江(図們江)・鴨緑江をもってとりあえず国境線とすることとなった。実際にはこの「国境」を越えた清朝領域に越境した朝鮮人が多数に上ったため、彼らをどう保護するかという問題とも絡んで、この後大韓帝国となっても清朝との国境線画定の話し合いは断続的に行われたが、豆満江・鴨緑江を国境線とすることが次第に既成事実化していった。 留意すべきなのは、このような国境画定の働きかけは朝鮮側からなされたという点である。当初は朝鮮も華夷秩序の論理に拠って清朝と交渉していたが、次第に近代国際法における自国民保護を援用して交渉するようになっていった。国境線画定という問題の深化とともに、近代国際法が受容されていったといえる(秋月2002)。
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