国境線画定交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 02:40 UTC 版)
朝鮮では西北経略使の魚允中が、金禹軾を調査に派遣し、白頭山定界碑の「土門」は豆満江北方の土門江(豆満江水系嘎呀河支流の海蘭河(海浪河)に流入)で、これこそ清朝国境であると主張した。1885年、国境線画定のため、清からは賈元桂と秦瑛、朝鮮からは李重夏と趙昌植が出席して会談し、朝鮮の土們勘界使は定界碑の文句通り土門江に国境を定めようとし、清国代表は豆満江が境界と主張、合意には至らなかった。 1887年、再度談判が行われ、朝鮮は以前の主張を撤回し豆満江の最北端の支流、紅土水を国境線として提案したが、清は最南端の支流、石乙水の案を譲らずまたも合意には至らなかった。 日清戦争での清の敗北による大韓帝国の樹立後、1899年に締結された「韓清通商条約(韓清修好条規)」でも国境は明示されなかった。1900年、義和団の乱が起こり清の勢力が弱まると、朝鮮は1903年間島管理使を任命して現地に派遣した。このため間島問題は清朝間の国境問題に発展した。
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