EOKA、TMTによる攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:02 UTC 版)
「労働人民進歩党」の記事における「EOKA、TMTによる攻勢」の解説
1950年代後半のキプロスでは、反英闘争の嵐が吹き荒れていた。イギリスは戦略的に極めて重要な位置にあるキプロスの独立も、ギリシャへの譲渡も認めなかった。そんな中、テロリズムに訴えてでもエノシスを実現しようとしたのが、キプロス闘争民族組織(EOKA)と呼ばれるギリシャ系キプロス人武装勢力である。EOKAは植民地政府のほか、EOKAのテロ路線を容認しないAKELを「イギリスに協力した裏切り者」と決め付け、AKELにすら攻撃の矛先を向けた。1955年までAKEL自体、植民地政府により非合法化されていたにもかかわらず、である。AKEL党員およびその支持者はEOKAにより危険にさらされ、実際に殺害された者もいた。AKELは、EOKAはもはやエノシスではなく反共主義運動を目的としている、と糾弾した。 また1958年頃から、トルコ・レジスタンス機構(TMT)と呼ばれるトルコ系キプロス人の民族主義集団も、AKELに対して攻勢に出た。AKEL内のトルコ系キプロス人党員に対し、AKELを離党しTMTへ加入するよう強制したのである。その指導者は、後に北キプロス・トルコ共和国を建国しキプロス島を南北に分断する一因となったラウフ・デンクタシュであった。その強制に従わなかったトルコ系キプロス人も、TMTにより殺害されている。 EOKA、TMTによる攻撃で大きな打撃を受けたAKELは、キプロス独立をイギリスがようやく容認したにもかかわらず、独立交渉に加わることが出来なかった。結局、エノシスが実現することはなかったものの、1960年にキプロスは独立。マカリオス3世が初代大統領に就任し、共産主義勢力に圧力をかけ続け、AKELの勢力は低迷期に入ることとなる。その後も左翼の最大政党として一定の影響力を持ち続けたものの、1970年代半ばまで、TMTによりAKEL中央委員会のトルコ系キプロス人委員が殺害されるなど、攻撃は受け続けた。
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