1973 - 74年
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「キプロス紛争」の記事における「1973 - 74年」の解説
一時の平穏を得たマカリオスは、ギリシャへの統一(エノシス)を目指す限りキプロスの内戦が終了しないこと、さらにギリシャに軍事政権が成立しアメリカの影響力が強まったことなどから、トルコ系住民らと共存するために「独立中道主義」を掲げてエノシス放棄を宣言。さらには第三世界連帯を訴えソ連に接近した。これに対してEOKAはマカリオスを裏切り者として政権打倒を公然と主張。アメリカもキプロスを『地中海のキューバ』と位置づけ、マカリオス政権打倒へと政策をシフトした。この間、キプロスのトルコ系住民を代表する副大統領には病気辞任したキュチュクに代わり、独立前からトルコ系自治体の代表を務めてきたラウフ・デンクタシュが就任している。 1973年秋、トラキア西部の少数民族であったムスリム問題と、ギリシャが自国の大陸棚と定めていたエーゲ海東部の区域に対してトルコが採掘権を主張した事で、希土間に摩擦が生じはじめた。翌1974年1月、エーゲ海のタソス島沖で石油・天然ガスが発見され、希土関係はさらに悪化したが、北大西洋条約機構(NATO)の介入により一旦落着いた。 ギリシャ軍事政権は1973年7月29日に、既に名目的な存在となっていた国王コンスタンティノス2世を廃位して共和制を宣言し、同年11月には、1967年4月の政権樹立以来実質的な最高権力者の座にあった大統領ゲオルギオス・パパドプロスがアテネ工科大学 (en) でのデモ鎮圧で多数の死傷者を出した責任を問われて失脚。フェドン・キジキス新大統領の下で軍事治安警察(ESA) (en) 長官ディミトリオス・イオアニディス (en) が実権を掌握していたが、キプロスに対しては威嚇的な方針を採っておりマカリオスに圧力をかけていた。マカリオスはギリシャ軍事政権がキプロス情勢を悪化させていると非難し、キプロスの軍事組織であるキプロス民族防衛隊からギリシャ人将校の除隊を求めた。これに対しイオアニディスは、軍事政権下で非合法化されているギリシャ共産党の党員らがキプロスで活動していたことをマカリオスが公認していたとして、キプロス政府転覆を計画した。 紛争の黒幕との噂が根強いヘンリー・キッシンジャー キプロスへの軍事介入を決めたビュレント・エジェヴィトトルコ首相 キプロス副大統領だったラウフ・デンクタシュトルコ介入後に北キプロス・トルコ共和国初代大統領に就任
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1973~74年
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本作は上記のとおりシンセサイザーや効果音をふんだんに用いた複雑な構成のもとに作られた曲が多く、4人編成でしかもキーボーディストもいないザ・フーではステージでの再現が困難だった。バンドはあらかじめステージ用にバンド以外のパートをまとめたバッキングテープを作成し、これによって『四重人格』の複雑なサウンドを再現しようと試みた。だがそのテープが会場の湿度や気温に影響されうまく再生できないと言った問題や、再生するタイミングがバンドと合わなくなるといったトラブルが頻発した。本番中に音響係が再生タイミングを間違え、激怒したタウンゼントが音響係をステージに引きずり出し、バッキングテープを引きちぎってステージを降りてしまうという事件も起きている。観客の反応もいまひとつだったことも加わり、『四重人格』の曲はツアー開始当初は12曲がセットリストに入れられていたが、ツアーが終わる頃には3曲までに減っていた。またこのツアー中、本番前に酒に鎮静剤を混ぜて飲んだムーンがコンサート中に昏倒し、客席の中からドラムが出来る者を募り、立候補した一人をステージに上げて急場をしのぐという出来事もあった。
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