1973年 - 1977年:バンドのキャリアと解散
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バンド名をタイトルにつけた1stアルバム(邦題は『鷲頭、獅子胴の怪獣』)でデビューし、エレクトリック・ギターやキーボードだけでなく、ロック・ミュージックで使用されることのなかったバスーンやクルムホルンなどの管楽器を含んだ編成でサウンドを広げていった。グリフォンの音楽は、少なくとも初期のレコーディングにおいて、ロックと同じくらい、片田舎の英国フォークやルネッサンス期のシャンソンの雰囲気をもっていた。 1974年、グループの広報担当であるマーティン・ルイスは、サー・ピーター・ホールが演出するウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」を英国の国立劇場劇団が舞台上演するための音楽の作曲と録音の依頼を受けた。それは1974年4月に、歴史的なオールド・ヴィック・シアターで上演された。舞台制作のためにバンドが書いて録音した音楽は、21分の幻想曲「Midnight Mushrumps」(「テンペスト」に登場するフレーズにちなんで名付けられた)として結実し、セカンド・アルバム(邦題は『真夜中の狂宴』)のタイトル曲となった。1974年7月、ルイスは公演が成功し、その音楽が高く評価され、グリフォンがオールド・ヴィック・シアターで日曜夜のコンサートを開催できるよう手配した。これは英国の国立劇場で開催された史上初のロック・コンサートだった。コンサートで、バンドは「Midnight Mushrumps」を演奏した。コンサートはプログレッシブ・ロック・ミュージックをメジャーにブレイクさせるものになると考えられていた。 3枚目のアルバム『女王失格』、それに続くイエスのサポートとしてのツアーでは、彼らの楽器演奏はより一般的なものとなり、あまり突飛な楽器の使用は少なくなった。 グレアム・テイラーは、イエスをサポートするアメリカとイギリスのツアー(1974年-1975年)と、4枚目のアルバム『レインダンス』の完成の後、1975年にベース奏者のマルコム・ベネットと共にバンドを脱退した。ベネット(彼もロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックの生徒だった)は、1974年にフィリップ・ネスターの後任としてバンド加入していた。テイラーとベネットは、グループが(一時的に)解散状態になる前の1976年夏、コペンハーゲンのナイトクラブで演奏を行うPrecious Littleというロック・バンドを結成していた。 1977年、リチャード・ハーヴェイとジョナサン・デイビーは、リック・マンスワースとジョン・トーマスの変名で、The Bannedというパンク・ロック・グループのメンバーとなっていた。オリジナルは1960年代のシンジケート・オブ・サウンド による楽曲「リトル・ガール」のカヴァー・バージョンを発表し、英国のポップチャートでヒットを記録している。 グリフォンは、1977年に5枚目にして最後のアルバム『反逆児』(ハーヴェスト・レコード)をリリースした後に分裂し解散した。
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