1972年~ 相次ぐ海外遠征
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「ラグビー日本代表」の記事における「1972年~ 相次ぐ海外遠征」の解説
海外遠征の増加 1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となり、23歳未満で構成されるオーストラリア代表コルツが来日したテストマッチで1勝1分を記録する など、国内強化試合を含めて負けなしを記録した。そして翌年のイギリス・フランス遠征が決まったが、岡が指導する同志社で練習中に部員が死亡するという事態となったため、岡は監督辞任せざるを得なくなった。 1973年イギリス・フランス遠征の監督には急遽横井久が就任し、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」ができあがった。10月6日に当時世界一との評価を得ていたウェールズと、10月28日にフランスと、それぞれ初のテストマッチを行なった。ウェールズには14-62で敗れたが、フランス戦については18-30と健闘した。 1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1か月にわたり、6年ぶりとなるニュージーランド遠征が実施された。遠征最終戦で、「大西ジャパン」時代でも勝利できなかったNZUに対し、「アニマル」こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で破り、初勝利を挙げた。 1975年、岡が監督に復帰し、7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表 (ワラビーズ)とはテストマッチを2試合行い、第2テスト試合の8月17日の試合では、25-30と健闘した。この頃までは、IRFB正加盟国8カ国の代表に対し、勝てないまでも、健闘する試合が少なくなかった。 ラグビーブームとは裏腹の日々 1970年代後半あたりから、とりわけ大学ラグビーについては空前のブームとなった。早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会では満員のスタンドで行われるのが常となっていた。しかし日本代表はこの頃、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績だった。1975年のオーストラリア遠征から1980年まで、キャップ対象試合で日本代表が勝利を収めたのは、アジア選手権において3度韓国を破った試合のみ。それ以外の相手では、1979年の花園におけるイングランド戦の惜敗 (19-21)があったとはいえ、1引き分けを挟んで19連敗を喫した。 1981年のオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利 すると、1982年の香港及びカナダ代表の来日試合に勝利してテストマッチ5連勝を記録した。以後、1982年9月26日にNZUから国内初勝利を挙げた試合 や、1983年のウェールズ遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合 もあったが、一方では韓国に度々敗戦してアジア王者から陥落した年もある など、安定した成績を収めることができなかった。 この間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなど、場当たり的な人事とみられてもおかしくなかった。国内の爆発的なラグビー人気があり、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも、日本代表は成績が振るわなかった。
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