1972年~ 相次ぐ海外遠征とは? わかりやすく解説

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1972年~ 相次ぐ海外遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 13:50 UTC 版)

ラグビー日本代表」の記事における「1972年~ 相次ぐ海外遠征」の解説

海外遠征増加 1972年同志社大学指揮執る岡仁詩後継監督となり、23歳未満構成されるオーストラリア代表コルツ来日したテストマッチで1勝1分を記録する など、国内強化試合含めて負けなしを記録した。そして翌年イギリス・フランス遠征決まったが、岡が指導する同志社練習中に部員死亡するという事態となったため、岡は監督辞任せざるを得なくなった1973年イギリス・フランス遠征監督には急遽横井久就任し当時主将実弟横井章務めており、「横井兄弟体制」ができあがった10月6日当時世界一との評価得ていたウェールズと、10月28日フランスと、それぞれ初のテストマッチ行なったウェールズには14-62で敗れたが、フランス戦については18-30健闘した1974年明治大学OB斎藤寮監督就任し4月下旬から1か月にわたり、6年ぶりとなるニュージーランド遠征実施された。遠征最終戦で、「大西ジャパン時代でも勝利できなかったNZU対し、「アニマル」こと藤原優逆転トライ利いて24-21で破り、初勝利を挙げた1975年、岡が監督復帰し7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征実施したオーストラリア代表 (ワラビーズ)とはテストマッチを2試合行い、第2テスト試合8月17日試合では、25-30と健闘したこの頃までは、IRFB正加盟国8カ国の代表に対し勝てないまでも、健闘する試合少なくなかった。 ラグビーブームとは裏腹日々 1970年代後半あたりから、とりわけ大学ラグビーについては空前のブームとなった早明戦早慶戦全国大学ラグビーフットボール選手権大会日本ラグビーフットボール選手権大会では満員スタンド行われるのが常となっていた。しかし日本代表この頃アジア諸国相手にしか勝てないという戦績だった。1975年オーストラリア遠征から1980年まで、キャップ対象試合日本代表勝利を収めたのは、アジア選手権において3度韓国破った試合のみ。それ以外相手では、1979年花園におけるイングランド戦の惜敗 (19-21)があったとはいえ、1引き分け挟んで19連敗喫した1981年オーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利 すると、1982年香港及びカナダ代表来日試合勝利してテストマッチ5連勝記録した以後1982年9月26日NZUから国内勝利を挙げた試合 や、1983年ウェールズ遠征ウェールズ代表に24-29と惜敗した試合 もあったが、一方で韓国に度々敗戦してアジア王者から陥落した年もある など、安定した成績収めることができなかった。 この間代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか新任監督誕生せず、過去経験者二度目三度目就任をするなど、場当たり的人事とみられてもおかしくなかった。国内爆発的なラグビー人気あり、か松尾雄治などのタレント擁しながらも、日本代表成績が振るわなかった。

※この「1972年~ 相次ぐ海外遠征」の解説は、「ラグビー日本代表」の解説の一部です。
「1972年~ 相次ぐ海外遠征」を含む「ラグビー日本代表」の記事については、「ラグビー日本代表」の概要を参照ください。

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