エノケン一座で劇作家に転向
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「藤田潤一」の記事における「エノケン一座で劇作家に転向」の解説
第二次世界大戦が始まると、藤田は、当時東宝傘下であった「エノケン一座」(東宝榎本健一一座)の座付き作家(劇作家・演出家)、に転向し、1942年(昭和17年)11月公演で『河童の国』(原作塩谷寿雄)を脚色・演出している。戦中戦後の藤田は、「エノケン一座」にあった。1946年(昭和21年)8月、「エノケン一座」は東宝から独立し、株式会社榎本健一劇団に組織変更しているが、藤田はその後も同劇団の作品を書き、演出した。1949年(昭和24年)12月30日には、藤田の脚本に渡辺邦男が手を加えて監督した『エノケン・笠置のお染久松』が公開され、合計3作、榎本健一の主演映画に脚本を提供している。1952年(昭和27年)4月3日公開の花柳小菊の主演映画『お洒落狂女』(監督佐伯清、原作本田美禅、配給東映)にも、藤田は脚本家として参加した。劇作家、演出家としての仕事面は成功し、家庭でも2男に恵まれたが、放縦な生活の結果、1953年(昭和28年)には離婚した。鏡子は翌1954年(昭和29年)には映画界に復帰した。 その後、3年間の仕事については伝えられていないが、1956年(昭和31年)には、日本テレビ放送網の喜劇番組『喜劇天国』に脚本を提供している。同番組は益田喜頓、榎本健一、有島一郎、清川虹子、小桜京子、山東昭子、高橋とよ、古川緑波、柳家金語楼といった喜劇人が出演しており、藤田は1957年(昭和32年)12月2日放映の『師走の風』(主演瀬川路三郎)まで数本、脚本を書いていることがわかっている。古川緑波は『古川ロッパ昭和日記』において、同企画の初期において藤田が関わっており、『午后3時の恋人』を藤田が書いたことや、すでにこの当時、藤田が宣弘社と関わっていたことなどを書き残している。1958年(昭和33年)11月4日に放映を開始した連続テレビ映画『遊星王子』(製作宣弘社プロダクション)の全49話を脚本家の伊上勝と組んで、ほぼすべてを監督し、成功を収めた。1961年(昭和36年)2月2日に放映を開始した連続テレビ映画『おてんば天使』(原作横山光輝)も監督を手がけ、作品は人気を博した。
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