エノケン一座で劇作家に転向とは? わかりやすく解説

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エノケン一座で劇作家に転向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 22:08 UTC 版)

藤田潤一」の記事における「エノケン一座で劇作家に転向」の解説

第二次世界大戦が始まると、藤田は、当時東宝傘下であったエノケン一座」(東宝榎本健一一座)の座付き作家劇作家・演出家)、に転向し1942年昭和17年11月公演で『河童の国』(原作塩谷寿雄)を脚色演出している。戦中戦後藤田は、「エノケン一座にあった1946年昭和21年8月、「エノケン一座」は東宝から独立し株式会社榎本健一劇団組織変更しているが、藤田その後も同劇団作品書き演出した。1949年昭和24年12月30日には、藤田脚本渡辺邦男手を加えて監督したエノケン笠置お染久松』が公開され合計3作、榎本健一主演映画脚本提供している。1952年昭和27年4月3日公開花柳小菊主演映画お洒落狂女』(監督佐伯清原作本美禅配給東映)にも、藤田脚本家として参加した劇作家演出家として仕事面成功し家庭でも2男に恵まれたが、放縦な生活の結果1953年昭和28年)には離婚した鏡子は翌1954年昭和29年)には映画界復帰したその後3年間の仕事について伝えられていないが、1956年昭和31年)には、日本テレビ放送網喜劇番組喜劇天国』に脚本提供している。同番組益田喜頓榎本健一有島一郎清川虹子小桜京子山東昭子高橋とよ古川緑波柳家金語楼といった喜劇人出演しており、藤田1957年昭和32年12月2日放映の『師走の風』(主演瀬川路三郎)まで数本脚本書いていることがわかっている。古川緑波は『古川ロッパ昭和日記』において、同企画初期において藤田が関わっており、『午后3時恋人』を藤田書いたことや、すでにこの当時藤田宣弘社と関わっていたことなどを書き残している。1958年昭和33年11月4日放映開始した連続テレビ映画遊星王子』(製作宣弘社プロダクション)の全49話を脚本家伊上勝組んで、ほぼすべてを監督し成功収めた1961年昭和36年2月2日放映開始した連続テレビ映画おてんば天使』(原作横山光輝)も監督を手がけ、作品人気博した

※この「エノケン一座で劇作家に転向」の解説は、「藤田潤一」の解説の一部です。
「エノケン一座で劇作家に転向」を含む「藤田潤一」の記事については、「藤田潤一」の概要を参照ください。

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