クレタ島での戦い
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「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の記事における「クレタ島での戦い」の解説
東ローマ帝国の文人皇帝コンスタンティノス7世によれば、クレタ島はポントス王ミトリダテス6世を支援して、傭兵を提供していた。当時ローマはミトリダテスと戦っており、苦戦を強いられていた。クレタ人は地中海を荒らしていた海賊を支援し、さらには同盟していた。当時の地中海で海賊は恐怖の対象であった。航行する船には拿捕されるおそれがあり、ローマへの穀物輸送に支障を来していた。さらには港も海賊の襲撃を受ける状況にあった。マルクス・アントニウス・クレティクス(著名なマルクス・アントニウスの父)はクレタ島に使節を送り、ミトリダテスと海賊への支援を止めるよう要求した。しかしクレタはこれを拒否、戦争となった。講和の条件はクレタの司令官であったラステンスの降伏、クレタ島に抑留されている全ローマ人の解放、全海賊船の引渡し、人質300人の供出、および4000タレントの銀の提出であった。クレタはこの条件を拒否した。 クレティクスは紀元前69年の執政官であったが、執政官任期中に前執政官としてクレタに赴くように依頼された。同僚執政官のクィントゥス・ホルテンシウス・ホラティウスはこれを拒否していた。クレティクスはクレタのいくつかの都市を占領し大きな成功を収めたが、クレタは紀元前67年にグナエウス・ポンペイウスに仲裁を依頼した。同年にポンペイウスは護民官アウルス・ガビニウスが立案したガビニウス法によって海賊討伐の総司令官となり、地中海の海賊を平定していた。クレタはポンペイウスがより寛大な条件で降伏を受け入れることを期待していた。クレタでの軍事指揮権はクレティクスにあったが、ポンペイウスはこれを無視してクレタの降伏を受け入れた。ポンペイウスはクレティクスに彼の軍団と共にクレタを離れるように命令したが、クレティクスは戦闘継続に執着した。結局クレティクスはクレタ島を征服し、ローマの属州とした。 クレティクスがポンペイウスの命令に従わなかったため、彼と彼の支持者達は、長い間クレティクスの凱旋式実施を認めなかった。紀元前62年にようやく凱旋式を実施するとともに、「クレティクス」のアグノーメンを得ている。凱旋式実施を妨害したことに対する報復として、クレティクスはポンペイウスの東部での領土再編法案を元老院が批准することを、紀元前60年まで拒んだ。クレティクスは紀元前50年代後半に没するまで、反ポンペイウス派の重鎮として活動した。
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