クレタ島での戦いとは? わかりやすく解説

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クレタ島での戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:42 UTC 版)

クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の記事における「クレタ島での戦い」の解説

東ローマ帝国文人皇帝コンスタンティノス7世によればクレタ島ポントスミトリダテス6世支援して傭兵提供していた。当時ローマミトリダテス戦っており、苦戦強いられていた。クレタ人地中海荒らしていた海賊支援しさらには同盟していた。当時地中海で海賊恐怖対象であった航行する船には拿捕されるおそれがあり、ローマへ穀物輸送支障来していた。さらには港も海賊襲撃を受ける状況にあったマルクス・アントニウス・クレティクス著名なマルクス・アントニウスの父)はクレタ島使節送りミトリダテス海賊への支援止めるよう要求した。しかしクレタはこれを拒否戦争となった講和条件クレタ司令官であったラステンスの降伏クレタ島抑留されている全ローマ人解放、全海賊船引渡し人質300人の供出、および4000タレントの銀の提出であったクレタはこの条件拒否した。 クレティクスは紀元前69年執政官であったが、執政官任期中前執政官としてクレタ赴くように依頼された。同僚執政官のクィントゥス・ホルテンシウス・ホラティウスはこれを拒否していた。クレティクスはクレタいくつかの都市占領し大きな成功収めたが、クレタ紀元前67年グナエウス・ポンペイウス仲裁依頼した同年ポンペイウス護民官アウルス・ガビニウス立案したガビニウス法によって海賊討伐総司令官となり、地中海海賊平定していた。クレタポンペイウスがより寛大な条件降伏受け入れることを期待していた。クレタでの軍事指揮権はクレティクスにあったが、ポンペイウスはこれを無視してクレタ降伏受け入れたポンペイウスはクレティクスに彼の軍団と共にクレタ離れるように命令したが、クレティクスは戦闘継続執着した。結局クレティクスはクレタ島征服しローマ属州とした。 クレティクスがポンペイウス命令に従わなかったため、彼と彼の支持者達は、長い間クレティクスの凱旋式実施認めなかった。紀元前62年にようやく凱旋式実施するとともに、「クレティクス」のアグノーメン得ている。凱旋式実施妨害したことに対す報復として、クレティクスはポンペイウス東部での領土再編法案元老院批准することを、紀元前60年まで拒んだ。クレティクスは紀元前50年代後半没するまで、反ポンペイウス派の重鎮として活動した

※この「クレタ島での戦い」の解説は、「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の解説の一部です。
「クレタ島での戦い」を含む「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の記事については、「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス」の概要を参照ください。

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