東方問題の顕在化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:20 UTC 版)
「東方問題」以前、バルカン半島はオスマン帝国の統治により「パクス・オトマニカ」(オスマンの平和)の安定のもとにあったとされる。オスマン帝国によるバルカン制圧当初はイスラームの支配を嫌う住民が流出し、人口減少に襲われたが、16世紀になるとその統治は安定化した。東欧に領土を拡大するオスマン帝国に対し、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国は脅威を感じていた。 17世紀に入ると、徐々にオスマン帝国の国力は弱まり「東方問題」の素地が形成された。大規模なヨーロッパ進撃を図った1683年の第二次ウィーン包囲の失敗を境に、バルカン半島におけるオスマン帝国領は縮小・解体の方向に転じた。オスマン帝国は1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを失い、東欧での拡大が阻止された。これ以降ヨーロッパに対するオスマン帝国の脅威は薄れ、東欧では再びヨーロッパ諸国が支配的となった。 18世紀初頭には、オーストリアはオスマン帝国との戦争で連勝を続け、1718年のパサロヴィッツ条約ではオスマン帝国からベオグラードを一時的に奪取した。同時期、ロシアは1700年にオスマン帝国から黒海沿岸のアゾフを獲得し黒海支配の足がかりを得たかに思われたが、1711年のプルート戦役では敗北してプルト条約でアゾフを返還した。ロシアの圧迫は一時的に緩和され、オスマン帝国はしばらくの間安定した時期を迎えた。従来オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国に特権としてのカピチュレーション(外交特権、治外法権なども含まれる)を与える恩恵的な性格の強い外交政策をとっていたが、この時期には西欧文化・技術を吸収する西欧宥和政策に転換した(チューリップ時代と呼ばれる)。1719年ウィーンに、1720年にはパリに外交使節を派遣するなど自ら積極的な外交を展開する姿勢を示した。 1736年にロシアが再びアゾフを求めてオスマン帝国と争うオーストリア・ロシア・トルコ戦争(露土戦争とも、1735年 - 1739年)に参戦した。この戦争の結果は1739年のベオグラード条約で、これによりロシアのアゾフ領有が確定しロシアの黒海進出を招いたものの、オスマン帝国はオーストリアからベオグラードを奪還した。しかしこの戦争ではその結果よりも推移状況において「東方問題」に特徴的な傾向が現れた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の1年後にロシアを支援する形で参戦したが、ロシアの影響力の拡大を恐れたために、休戦交渉においてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。ここでは「東方」をめぐる紛争に、紛争の当事者以外の第三国を介入させることで勢力均衡を維持しようとする「東方問題」の基本構造を見ることができる。 1768年の露土戦争によって、「東方問題」はヨーロッパ政治において重要性を帯びることとなった。戦後、1774年にキュチュク・カイナルジ条約が結ばれ、ロシアはオスマン帝国から黒海沿岸を譲り受けた。さらにこの条約で、ロシアがオスマン帝国支配下の正教徒の保護権を認められたことから、以後ロシアは主にこれを口実としてオスマン帝国への干渉を強めるようになった。 1787年にロシアとオスマン帝国の間で再び戦端が開かれると(露土戦争)、同盟に基づいてオーストリアのヨーゼフ2世も参戦した。この際両国の間でオスマン帝国領を分割(英語版)する約束がされた。これはイギリス・フランス・プロイセンなどに警戒を抱かせたが、1791年にオーストリアは戦争から手を引かざるを得なくなり、結果的に1792年のヤシ条約ではロシアが黒海支配を大きく進めることとなった。 19世紀前半にはオスマン帝国をめぐる「東方問題」に関する列強の位置は明確になった。ロシアは最も直接的な影響力を持った。ロシアはボスポラス・ダーダネルス両海峡およびコンスタンティノープルの港を確保して、黒海を支配していた。さらにロシアは、地中海進出の足がかりを得ることに関心があり、オスマン帝国海域での商船や軍艦の航行権を列強に先んじて確保し優位に立つことを望んでいた。また相対的に重要性は落ちるものの、オスマン帝国内の正教徒をロシアの管理下に置きたいと望んでいた。このようなロシアの立場に対して、オーストリアが最も直接的に対立した。オーストリアにとって、弱体化したオスマン帝国に比べると、ドナウ川沿いに進出しようとするロシアの脅威のほうがはるかに重大であった。さらにバルカン諸民族が活発になることは、オーストリア自身の抱える民族問題に飛び火し、自国内で民族の独立運動が激化につながると危惧されたため、オスマン帝国の保全を考えるようになった。イギリスは、インドへの交通路を確保するために、ロシアがボスポラス海峡を支配して東地中海に進出するのを警戒し、さらにオスマン帝国の崩壊によってヨーロッパの勢力均衡が崩れる懸念をもっていたために、オーストリアに近い立場にあった。
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