パレオロゴス王朝の失策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 13:55 UTC 版)
「アンドレアス・パレオロゴス」の記事における「パレオロゴス王朝の失策」の解説
ジョナサン・ハリスは、アンドレアスのローマ亡命は数世紀にわたるビザンツ帝国のパレオロゴス朝の失策の究極的な帰結であったとしている。14世紀半ば以降、ビザンツ皇帝たちは自らの帝国をオスマン帝国のトルコ人から守るため、西欧諸国やローマ教皇を頼ろうとした。ビザンツ帝国から西欧へ渡ったデメトリオス・キュドニオスやマヌエル・クリュソロラスら知識人の影響で、パレオロゴス朝の皇帝たちは西欧の信仰の権威である教皇さえ説得できれば、教皇が西欧の大軍を率いてビザンツ帝国を救いにやってくると信じていた。実際に1369年にはアンドレアスの曽祖父ヨハネス5世パレオロゴスがローマに赴いて教皇へ服従の意思を示し1438年から1439年のフィレンツェ公会議にはアンドレアスの叔父ヨハネス8世パレオロゴスが出席して東西教会の合同が宣言されている。同じく叔父にして最後の皇帝コンスタンティノス11世は、1452年にオスマン帝国軍がコンスタンティノープルに迫る絶望的状況を教皇に訴えている。帝国滅亡後もソマスやアンドレアスが教皇の力を借りて大規模な再征服遠征をおこない帝国を復興する計画を立て続けたが、ついに実行に移されることはなかった。 結局、アンドレアスは自身や従者たちの必要経費にも足を引っ張られ、ビザンツ帝国を再興する大望を実現することはできなかった。彼のおかれた厳しい状況は決して彼自身に責任があるわけではなく、教皇の支援切り詰め、さらに言えば教皇に依存しようとした先祖たちの方策自体に問題があったといえる。とはいえ14世紀から15世紀にかけてのビザンツ皇帝たちに残された選択肢は極めて少なく、教皇に望みを託し依存せざるを得なかった。教皇との間で膨大な誓約や取引を決めたにもかかわらず、実際に届いた援助はわずかなものだった。西欧諸国にビザンツ帝国を救う力がなかったことも、帝国の没落や、アンドレアスが二度と故郷に帰れなくなった要因として挙げられる。
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