ユスティニアヌス朝とは? わかりやすく解説

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ユスティニアヌス王朝

(ユスティニアヌス朝 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 05:32 UTC 版)

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ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青色と緑色部分はトラヤヌス時代のローマ帝国。赤線は東西ローマの分割線

ユスティニアヌス王朝は、ユスティヌス1世から始まる東ローマ帝国王朝518年 - 602年)。王朝の名前は第2代皇帝ユスティニアヌス1世から採られたものである。

歴史

ユスティヌスはもともとバルカン半島北西部、イリュリアの農村出身で、首都コンスタンティノポリスへ上って軍に入り、叩き上げの将軍となったが、皇帝アナスタシウス1世が後継者を指名せずに死亡したため、元老院の指名により皇帝に即位した。

甥のユスティニアヌスは早くからその才能を示し、ユスティヌスの晩年に共治帝となり、その死後、唯一の正帝となった。彼は、『ローマ法大全』の編纂・聖ソフィア大聖堂の再建・ベリサリウス、ナルセスなどの指揮官を使って古代ローマ帝国の再現を図ってアフリカヴァンダル王国イタリア半島東ゴート王国イベリア半島西ゴート王国の一部などを攻撃・占領し、古代ローマ帝国の復興を図ったことで有名であり、後世「大帝」と呼ばれた。

ユスティニアヌスの死後はユスティニアヌスの甥ユスティヌス2世が即位したが、ユスティニアヌスの征服事業や建設事業のために財政は破綻しており、早くも衰退が始まった。ランゴバルド族のイタリア侵入や、サーサーン朝に対する敗戦などが続き、そのショックでユスティヌスは精神を病んで実権を養子である副帝ティベリウス2世に譲った。ユスティヌス2世の死後、正式に皇帝となったティベリウスは帝国の再建に努めたが、即位してわずか4年で死去し、娘婿で養子のマウリキウスが即位した。マウリキウスはラヴェンナカルタゴに総督府を設置して西方支配の再建に着手し、北から侵入してきたアヴァール人スラヴ人を討伐しようと試みたが遠征先で軍隊の反乱にあい、百人隊長フォカスによって帝位を簒奪されて殺されてしまった。これによって、養子によって継承されたユスティニアヌス王朝からの皇帝位の世襲は断絶した。

フォカスはユスティニアヌス王朝と血縁は無く、その治世には、正統性のない彼に対する反乱やサーサーン朝の侵攻が相次いだ。フォカスは610年、カルタゴ総督であるヘラクレイオスの同名の息子ヘラクレイオスに倒され、息子ヘラクレイオスがヘラクレイオス1世として即位し、新たな王朝ヘラクレイオス王朝を開いた。

ヘラクレイオス王朝やマケドニア王朝との関係

なお、ヘラクレイオス1世の母エピファニア(560年 - 没年不明)はユスティニアヌスの妹ウィギランティアとその夫(ユスティニアヌスの妹婿)ドゥルキディウスの子孫である。具体的な系譜としては、ウィギランティアとドゥルキディウスの娘でユスティヌス2世の妹プラエイエタ(522年 - 548年以降に没)がアレオビンドゥスという男性との間に娘ウィギランティア(540年生誕)を儲け、ウィギランティアがテオドルス(生没年不詳)という男性と結婚して生まれたのが、ヘラクレイオス1世の母エピファニアである。ヘラクレイオス1世はユスティニアヌスの妹ウィギランティアの玄孫(孫の孫)にあたり、女系ではあるがユスティニアヌス王朝の血縁者である。ユスティニアヌスとヘラクレイオス1世は高祖伯父と玄姪孫、ユスティヌス2世とヘラクレイオス1世は曾祖伯父と曾姪孫の関係となる。

先代:
レオ朝
東ローマ帝国
ユスティニアヌス朝
次代:
ヘラクレイオス王朝

ユスティニアヌス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:28 UTC 版)

東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事における「ユスティニアヌス朝」の解説

詳細は「ユスティニアヌス王朝」を参照 肖像名称生年在位期間即位背景没年 ユスティヌス1世 FLAVIVS IVSTINVS AVGVSTVS 450年2月2日 518年527年8月1日 農民出身近衛隊の将軍アナスタシウス1世後継者指名せず死亡したため、元老院指名により皇帝即位した527年8月1日 ユスティニアヌス1世大帝” FLAVIVS PETRVS SABBATIVS IVSTINIANVS AVGVSTVS 483年5月11日 527年8月1日565年11月14日(または11月13日ユスティヌス1世の甥。叔父晩年副帝となり、その死後唯一の正帝となった565年11月14日(または13日ユスティヌス2世 FLAVIVS IVSTINVS IVNIOR AVGVSTVS 520年 565年11月14日578年10月5日 ユスティニアヌス1世の甥。伯父嗣子無くして死去したため、後を継ぐこととなった578年10月5日 ティベリウス2世 FLAVIVS TIBERIVS CONSTANTINVS AVGVSTVS 540年 578年10月5日 - 582年8月14日 ユスティヌス2世娘婿義父サーサーン朝敗北したショック精神異常になると、副皇帝となって実権譲られ578年ユスティヌス死により正式に皇帝即位582年8月14日 マウリキウス FLAVIVS MAVRICIVS TIBERIVS AVGVSTVS 539年582年8月14日602年11月22日 ティベリウス2世娘婿義父死により即位することとなった602年11月27日 フォカス FLAVIVS PHOCAS AVGVSTVS 547年? 602年11月23日610年10月4日 トラキア地方出身ドナウ川国境駐屯する百人隊長602年ドナウ北岸での越冬命令出た時、軍はそれに反対して反乱起こしコンスタンティノポリス向かって進軍した時の皇帝マウリキウス逃亡しようとしたが捕らえられ処刑された。その後フォカス兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した610年10月5日

※この「ユスティニアヌス朝」の解説は、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の解説の一部です。
「ユスティニアヌス朝」を含む「東ローマ帝国の皇帝一覧」の記事については、「東ローマ帝国の皇帝一覧」の概要を参照ください。

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