テマ制は計画的に導入された制度では無いとする説
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「テマ制」の記事における「テマ制は計画的に導入された制度では無いとする説」の解説
かつては主流であったテマ制が計画的に導入された制度であるとする説は近年では疑問視されるようになってきている。このように考えられるようになった理由としては、従来の説を支持する記録が10世紀以前の資料からは見つかっていないこと、8世紀中頃まで旧来の行政区画に基づく民政機構がテマとは別個に存在していたことが分かってきたこと、従来はテマが発足したと考えられていた時期に、実際には中央政府には軍隊に対する糧食や装備品の調達・補給を担当する官職・組織が置かれており、中央政府は長期にわたって軍隊への補給の確保・維持を図ろうとしていたことが明らかとなったこと、等が挙げられる。 このようなことが明らかとなったことから、8世紀後期頃まで民政機構はテマとは別で、民政業務がテマ長官の権限に統合されていくのはそれ以降であり、長期間を経て形成されたと考えられるようになっている。 テマ制と密接に関連すると考えられてきた、テマ兵士に農地を分与する軍事保有地制度についても、以下のように形成されたとする考え方が示されている。 7世紀、失われた帝国周辺領土から撤収した野戦機動軍の軍団(テマ)が小アジア各地に進駐し、優勢なアラブ軍に対して縦深を活かした面的な抗戦を続けていく中で、糧食等は現地調達に頼るようになり、調達に有利な農村部に部隊が分散して宿営するようになった。このように農村部に常駐するようになった軍隊と現地社会の間では、新兵徴募や現地民と将兵の通婚などにより軍隊の現地社会への同化現象が進行し、軍人への不動産の集積が進んだ。軍隊への補給維持に注力していた中央政府にとっても、軍隊の現地自活は財政負担が軽減され好都合であることから、この状況を中央政府も容認することとなり、制度として固定化されるに至った。 強大な軍事力を擁するテマは皇帝に対する反対勢力ともなり得たが、他方、中央政府は国土全体に対する徴税機能と、その歳入を軍事費その他に再配分する機能を一貫して掌握し続けた。そのためテマが反対勢力となった場合も、割拠・独立という形態には向かわず、政権奪取を目指して首都に攻め上る形に向かうこととなった。 なお、テマ制は古代ローマ以来の国家体制に大幅な変容をもたらすものであり、このことからそれ以前の時期の帝国との連続性を否定し、新国家体制の成立と解釈する説もある。 いずれにせよ、テマ制は発足の経緯こそ不明であるものの、発足後の増強・整備は政策的に推進された。テマ制を含む国家体制の変容は東ローマ国家の防衛力を大きく強化することとなり、ユスティニアヌス朝期より大幅に縮小した国家は決して滅亡することはなかった。
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